(『カードック』04年2月号より)

[社長が決断するとき・第1回]
近代経営研究所・代表
中小企業診断士 根 本 寛

   債権者の怒号と五十億の赤字からの出発
   寿司岩・西谷一正社長

 
   産業構造転換の嵐が吹き荒れている。ここ二年は、業歴三十年以上の老舗企業の倒産が倒産全体の三割近くになっている。かって無かったことである。転換期には得意先の倒産など突然の突風に翻弄されることも少なくない。そんな困難を乗り切った先達の経験に学ぶことは、リスクマネジメントの面から今こそ必要だ。先達の生々しい経験をお伝えしたい。

■崖っぷちでの和議申請
   築地の寿司岩といえば、創業大正一〇年、一時は110店舗、売上50億、先代社長の積極経営で知られ、業界で一目おかれた存在だった。
 その寿司岩が東京地裁に和議申請をしたのは一九九四年八月二二日。三日後には不渡り手形が出ることが必至だったから、和議申請のできるぎりぎりの崖っぷちであった。
 和議とは現在の「民事再生法」。倒産企業が債務の減額、支払い猶予などを含む再建計画を裁判所の認定を受けて債権者に提案し、債権者の過半数、和議再建総額の四分の三以上の賛成により成立する再建型の和解のこと。
 寿司岩の場合、不渡り手形を出してからでは申請は受理されないと予想された。また、和議申請に持ち込むためには、事前に関係者に察知されると債権確保の騒動が起こり失敗する恐れがある。そのため、メインバンクを除く全ての関係者に秘密裏にことを運ばなければならない。   
 また、和議申請の後は、仕入れも全て現金で行わなければならない。その運転資金の確保も容易な作業ではない。さらに、限られた日数の中で、負債額や資産を確定して再建計画書をまとめ上げるのは大変な労力だ。
 負債額は約八三億円、対する資産は三十億、差し引き五三億の負債超過である。和議条件は、銀行などの担保付債権は全額返済、それ以外は五〇%カット。和議認可確定の翌年から十年で分割返済するというものとした。
 この一連の、神経の磨り減るような作業をたった十日程度で弁護士と綿密に計画を練り実行したのが、当時三二歳、取締役にもなっていなかった西谷一正(三代目・現社長)であった。先代社長はもはやまったくあてにならなかった。西谷の実質的な経営者としての初仕事は、誰もが逃げ出したくなるような困難極まりない仕事であった。

■限界を超えたストレスから倒れる
   西谷は大学卒業後日本IBMに勤め、主に営業畑を歩んだ。そして、和議の一年前、三一歳で寿司岩に入社し、下済みから修行していた。
 しかし、会社は父である二代目社長の長年による採算無視の放漫経営のつけと経理部長の数億にも上る横領により資金繰りは切迫し実態は危機状態だった。
 「経営者は拡大路線で乗り切るかそれともつぶすかの決断が非常に悩むところだと思いますが、その点きつかったのでは?」(根本)
 「いや、私は再建型の倒産しか方法がないと腹をくくっていましたから、そういう悩みはなかったですね」(西谷)
 そうは言っても債権者会議の怒号、罵詈雑言の様相は凄まじかったようだ。「一生分の汚い言葉を聞いたような気がします」
 和議を成立させるために、西谷は取引先一社、一社頭を下げて同意を求めて回った。そのときも罵詈雑言を浴びせられることは当たり前、氷を投げつけられたり身体に危害を加えられたこともあった。
 限界を超えた猛烈なストレスから西谷はついに倒れた。病名は「不安神経症」。パニック状態で口がワナワナ震え、心臓がバクバクする病気だ。この病気は六年余りの治療でなんとか治すことができた。

■ついに総本店の売却を決意
   和議計画は認められたが再建は容易でない。西谷は店別や部門別の損益を明確にして無駄な費用をカットするなど徹底した合理化を進めたが、長年計数無視の経営に慣らされていた幹部たちの反応は鈍く債務の弁済資金は容易なことでは生み出せない。年商が四八億程度に減少していた寿司岩が、毎年五億円の返済金を生み出すのはそもそも無理があったと言うべきだろう。
 九六年の第一回目の返済は、資産の売却代金なども加えて何とか三億数千万円の返済をした。しかし第二回目以降はこれという案もない状況になった。このままでは計画の十年で返済するのは到底不可能で、再建の見通しは立たない。
 和議から四年後の九八年、ついに西谷は最後の決断をした。それは創業以来のシンボルであり、旗艦店である本店以下中心店舗六店の売却である。売却代金は一七億六三〇〇万円、普通なら主要でない店舗を売却して本丸を守ることが多いが、それでは抜本的解決にならないと考えたのだ。 
 これは経営者として厳しい決断である。このようなことは頭で分かっていても断行するのがいかに難しいかは、日産が外から招いたゴーンによってはじめて断行できたことを見てもよくわかる。しかし、西谷にはどうしても再建するのだという強い決意があった。その強い意志が迷いを断ち切らせた。
 この決断によって、銀行などの担保付債務は全額、一般債務も四割の返済をし身軽になることができた。まさに「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」であった。

■新たなる挑戦に向けて
   しかし、経営者として本格的な戦いはその後にあった。何と言っても黒字経営に転換しなければ、残りの返済もできないし将来が見えない。
 職人気質の強い現場の意識改革に追われる日々が続いた。現場での対話を続ける一方で、IBM勤務を通じて身につけた近代的経営手法を導入した。店舗をABCでランク付けし利益の出ないCランクの店には高級ネタの仕入れを止めさせるなど思い切った対策を講じた。反発もあったが、粘り強く体質改善を進めた。
 積み重ねの結果、ついに二〇〇〇年決算で二〇〇〇万円の黒字に転換した。二〇〇二年四月には、予定より三年前倒しでほぼ和議も終了させた。
 いま寿司岩は、中長期計画「チャレンジ2005」により売上四〇億、経常利益二億円を達成し上場を果たしたいとしている。さらに創業一〇〇周年の二〇二一年には、世話になった方々全員を招待して皆が驚くような大イベントを開催したいという。
 厳しい経験をした者として同じような立場の二代目、三代目に言うとしたら何かとたずねたら「本業の○○屋の親父の顔になれと言いたい」という言葉が返ってきた。
 ……西谷は老舗の四代目社長としてはめったにない厳しい経験をして深い海底から水面に顔を出した。その力の源泉は、社員を路頭に迷わせるわけにはいかないという気持ちだけだったという。
 水面下から顔を出し太陽をあおぎ見られるようになった今、ぜひとも夢を実現していただきたいと念ずる次第である。