筆跡鑑定人ブログ

筆跡鑑定人ブログ−42
筆跡鑑定人 根本 寛
 このコーナーに書くのは、事実に基づく、筆跡鑑定人の「独り言」のようなものです。お気軽にお付き合いいただければ幸いです。
 ただし、プライバシー保護のため固有名詞は原則的に仮名にし、内容によってはシチエーションも、特定できないよう最小限の調整をしている場合もあることをご了解ください。
  • 私が誤った鑑定書を憎む理由(22-3-10)
  • ある女性を襲った悲劇
  •  私は誤った筆跡鑑定書を強く憎んでいる。罪もない人を罪に落し、立派な人格者を考えもしなかった不幸に陥れることがあるからだ。

     一般の人は、筆跡鑑定の誤りというと、裁判所が関与しない鑑定書を想像するかも知れないが、必ずしもそうとも言えない。裁判長の指揮のもとに、裁判所リストに載っている筆跡鑑定人に依頼した結果の誤りも少なくないからだ。

     私が、誤った鑑定書を強く憎むきっかけになった事件があった。中国地方のローカルな地域の事件である。依頼者は50代の井上美恵子(仮名)さんである。彼女は、嫁いだ先の義理の母親のたっての願いで、その家の養女となった。これが不幸の始まりだった。
  • 若くして夫が病死する
  •  実は彼女は、22歳で農家の嫁として結婚したが、二年後に夫は20代の若さで病死した。実家の両親は彼女に離婚してやり直すよう説得した。しかし、彼女は婚家に残った。義理の父親が病弱で、彼女がいないと農家を維持していくのは困難だったからだ。彼女が家を出てしまった後の婚家の困難を考えると見放すわけにはいかなかった。
  • 図1
  •  その家には、息子がもう一人いたのだが、農家を嫌って都会に出て結婚し、実家にはあまり寄り付かなかった。それから、30年、彼女は病弱な父親に代わり、普通の人の二倍も働いて夫のいない義理の父母に尽くしてきた。

     義理の父親は、五年ほど前のいまわの際に妻を枕元に呼んで言った。「息子は性悪者だ。ほおっておいたらこの神様のような嫁に財産を分けることなどしないだろう。養子縁組をして娘にしてくれよ」。井上美恵子さんは義理の娘だから、養子縁組をして実の親子になるか遺言書で残さない限り法定上の相続権はない。

     「ああ、それがいい、必ずそうするよ」ということで、義母はその遺言どおり、美恵子さんと養子縁組をして二人は正式な親子になった。美恵子さんは、義母を安心させるためもあって承知した。年老いた義母は、美恵子さんが引き続き留まって面倒を見てくれるのかどうかと心配していたのである。
  • とんでもない濡れ衣を着せられる
  •  さて、養子縁組の届けを出して安心したのか、義母もその一年後には亡くなった。案の定、実の息子が訴訟を提起した。あろうことか、養子縁組届の養母の署名欄の署名は、嫁である井上美恵子さんの偽造だというのだ。

     筆跡がポイントになる争いなので、裁判長は筆跡鑑定をするよう指導した。原告・被告とも承知して、裁判所リストにある鑑定人を指名し鑑定を行った。結果は、義母の署名は井上美恵子さんの筆跡の可能性が高いというものだった。

  •  井上美恵子さんは驚いて、もう一度別な鑑定人に鑑定して貰いたいと強く要求した。そして、同じように鑑定人リストに載っている鑑定人によって鑑定が行われたが、結果は余計悪くなった。今度の鑑定人は、義母の署名は井上美恵子さんの筆跡だと断定したのである。こうして、一審は敗訴してしまった。
  • 五分でわかる簡単な筆跡鑑定だった
  •  この段階で、井上美恵子さんと弁護士さんから私に問い合わせがあった。私は五分見ただけで、お婆さんの署名は本人のものだとわかった。それほど、明確な筆跡だった。こうして、私は明々白々たる鑑定書を作成した。おそらく、公平な第三者が私の鑑定書を見たら10人が10人とも納得するだろう。

     その後のことは弁護士さんに委ねて1年ぐらい経った。気にかかっていた私は、井上美恵子さん問い合わせをしてみた。何と、控訴審も敗訴であった。判決文には「二人の鑑定人が黒で一人の鑑定人が白なので黒を正しいとした」というような文言があったそうだ。

     私は刑事罰の「有印私文書偽造」のほうはどうなったのかと尋ねた。弁護士さんが、「万一控訴審で敗れたら刑事事件で争う、刑事事件なら筆跡鑑定も厳格だから」と言っていたのを思い出したからだ。
  • はたして、技術的な誤りだったのか
  •  しかし、井上美恵子さんの返事は「刑事事件のほうへは進まなかったようです。何もありませんでした」ということだった。ということで、鑑定人の私としては、それ以上やれることはないので電話を切った。

     このケースは、私が鑑定人として仕事を初めて一年目あたりだったこともあり強く印象に残っている。このケースでは、私としては「裁判長はろくに鑑定書を読んでいないのではないか」という疑念を払拭し切れない。

     しかし、それと同時に裁判所の鑑定人リストにある二人の鑑定人の誤りにも強い怒りを感じる。それは、あまりに明確な鑑定だけに、技量的な単純ミスとは言い切れないものを感じるからである。刑事事件には進まなかったようだが、鑑定人も冤罪づくりに一役買っていることに、今でも許せないと強く感じている。
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