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筆跡鑑定人ブログ-80
- 筆跡鑑定人 根本 寛
- このコーナーに書くのは、事実に基づく、筆跡鑑定人の「独り言」のようなものです。お気軽にお付き合いいただければ幸いです。ただし、プライバシー保護のため固有名詞は原則的に仮名にし、内容によってはシチエーションも、特定できないよう最小限の調整をしている場合もあることをご了解ください。
警察系筆跡鑑定界の保身と消極的な姿勢
警察の筆跡鑑定の頂点に立つ、元科警研・文書研究室長Y氏の本には、「鑑定は同一の字体、同一の書体で行うのが原則であり、そうでないと鑑定は不可能になったり困難になる」と記されている。
同一の字体というのは、例えば「東」という文字と「東」ということ、「東」と「京」では鑑定はできないとされている。また、同一書体とは「楷書」と「楷書」、あるいは「行書」と「行書」で比較し、「楷書」と「行書」では、やはりできないとされている。
そのせいか、確かに警察OBの鑑定書で、異なる文字の鑑定をしたものにはあまりお目にかからない。それどころか、「ひらがな」「カタカナ」は鑑定に適さないとか、「アルファベット」は困難だとか、贅沢をいって拒否する鑑定人が多いようだ。
もう一つ、別な話だが、Y氏は、「鑑定資料は原本でなければいけない」と何度も主張している。しかしそれは、職権で原本を提出させることの出来る警察の立場から、「筆跡鑑定は警察の専権事項にせよ」と言っているように聞こえて、少し引っ掛かるものがある。
コピー技術が発達した今日では、1度や2度コピーを繰り替えしてもどちらが原本か分からない程度である。コピーと原本の差とはなんですかと問えば、ボールペンなどの筆圧痕が分からないとか、インクの成分分析ができない等という。
なるほどそれは確かだろう。しかし、普通の民事の筆跡鑑定で、そんなことが必要になることはめったにない。筆圧痕が強いので、書いたのは男性らしいと分かったからとして、民事に多い「遺言書」や「契約書」などの書き手を特定するうえでどれほどの意味があるだろうか。
2本の交差する線のどちらが先に書かれたものかなどは、確かにコピーでは判別できない。しかし、ほとんどは「運筆」で分かるから大した意義は無い。インクの成分分析に至っては、それで迷宮入りの殺人犯が特定できるというような場面でもなければ、そんな大掛かりな分析はナンセンスである。
というわけで、警察や一部の裁判官がいう「原本主義」は、普通の民事事件においてはいまや時代遅れである。確かに原本にこしたことは無いが、実際の鑑定からは、ほとんど意味がないと実感している。権力者が己の優位性を誇示したいがための牽強付会といったら言い過ぎになろうか。
警察系の鑑定人だけでは鑑定技術が向上しない。
さて、筆跡鑑定の鑑定文字の話に戻り、「同一字体、同一書体の原則」は、間違いを犯しにくいという点ではよいだろうが、はたして、現実には、そんなに条件の揃う事案ばかりだろうか。民事の世界でそんな贅沢を言っていては、関係者の満足は得られないだろう。
「関係者の満足」といったが、これは近年行政でも追及されている「住民満足」と同義語である。最近は、福利や教育などの良い市町村へ移住する住民が増えている。行政だからといって、今までの独占事業ではなくなりつつあるのである。
そこから、民間企業の理念の「顧客満足」が行政でも取り上げられている。つまり、競争のあるところ、自分の都合の良いように進めることはできなくなりつつあるということである。私には、ここまで述べてきたY氏など警察系筆跡鑑定人の言い分は、まさに独占事業の上に胡坐をかいてように見える。
警察系の鑑定人だけに鑑定を任せていれば、関係者へのサービスや鑑定技術は向上しない。警察系の鑑定人は、形式的な側面はしっかりしている反面、分かり易い鑑定書への努力や、技術的な掘り下げは不勉強であると思う。
良い例が、京都の一澤帆布事件である。これは、初代の会長の残した遺言書を巡って長男と三男が争った事件であったが、一回目の裁判では長男が勝ち、最高裁まで進んで確定した。
三男の妻が提起した二回目の裁判では、一転して三男の勝利となり、これも最高裁まで進んで確定した。長男側は三人の警察系の鑑定人、三男側は大学の先生や医師などで、いわば鑑定人としてはアマチュアであった。新聞では「プロがアマチュアに負けた」等と大きく報道された。
しかし、このようなことは、私にはまったく珍しいとは思わない。警察系の鑑定人に実力があるなどとは、一度も感じたことは無いからである。警察系の鑑定人は、形式的な面などはしっかりしているが、肝心の鑑定の中身は、表面的で感心しないことが多い。
裁判員制度の時代である。市民の権利を守る最後の砦、司法の一環を担う筆跡鑑定も、社会の変化を受け止め、警察系鑑定人と民間の鑑定人が適正な競争をするようにしないと、斯界のレベルは上がらないと痛感している。
異なる文字は共通する部分で鑑定する。
……私の主張はここまでにして、今回は、同じ文字がないので、異なる文字で鑑定した事例を紹介したい。もちろん、実際の事例で私の古い鑑定書からの抜粋である。
異なる文字での鑑定は、共通の部分によって行う。文字には、「木偏」、「サンズイ」、「しんにゅう」などの部分がある。そのような共通する部分を利用するのである。
最初に「サンズイ」の例である。図のように、書き手の判明している対照資料が「沢」、鑑定すべき資料が「消」である。そのサンズイのありようは、ご覧のように一見して類似している。
具体的に言えば、aで指摘したのは「第1、2画の角度」である。本来は、書道手本のように左から右下に向かって書かれる。しかし、資料A・Bは、逆に左から右上に運筆する癖で一致している。
これは同筆要素と言える。しかし、このような書き方の人は、経験則だが、大まかに言って半数近くいる。したがって、一致しているといっても同一人の筆跡だと特定するには弱い。
しかし、つぎのbで指摘した特徴はどうだろう。「第2画から連続して三画を書くこと」だ。しかも、その3画が長大に書かれることも資料A・Bで一致している。この書き方の人は、大まかにいって30%程度ではなかろうか。
どの程度の確率で断定できるのか
このように、ある字体を書く人の比率を、データで説明できれば鑑定書に書き込むことができる。しかし、このような特徴を整理しようとすると、極めて幅広く無限大にあるといっても過言でない。だから、データ収集は容易ではない。そこで、現実には「経験則」として参考までに述べるということになる。
最後にcで指摘したことは、このように書く人の比率は低いと思われる。「文字の全高に対するサンズイの大きさ(高さ)」である。これは、書道手本で見ると、「沢」字も「消」字も、全高とサンズイの高さはほぼ同じある。
しかし、資料A・Bは、測ってみると「沢」字も「消」の字もサンズイの高さは全高の60%程度と非常に小さく書かれている。これは、やや稀少な筆跡特徴ということができ、推測だが、このような書き方をする人は、10人に1人もいないのではないかと思われる。
以上3点の出現率が正しいとすると、合計出現率は、2人に1人は0.5、30%は0.3だからつぎの式になる。「0,5×0.3×0.1=0,015」となり、つまり、100人いて1,5人に該当するということになる。
これが、遺言書だとしたら、同一人の筆跡と決めつけてもいいようにも思うが、安全率を加味して、同じようなケースがもう1文字もあればよいのではないだろうか。こんどは、「0,015×0,015=0.00025」となり、該当者は1000人いて2.5人しかいないことになる。
「月」字に表れた共通項
つぎに「明、有、消」で調べた結果である。こんどは「月」字を取り上げた。この文字では、まず、aで指摘したのは「第1画が短く書かれること」である。3資料に一致している。漠然と見ていては分かり難いが、書道手本と比べることではっきりする。この書き方をする人はおおよそ5人に1人程度だと思われる。
この手本と比較する方法を、私は「標準逸脱法」と名付けているが、なかなか効果がある。日本よりもかなり先行しているアメリカの鑑定でも同様の方法を使っているようだが、目的を同じなら方法も同じになるようだ。
bで指摘したのは「転折部を丸く書く」運筆癖である。これも3資料に一致している。このような部分は、丸く書く人、角に書く人が約半々である。「口」や「日」など、転折部のある文字は、どの文字でも概ね同じ運筆になる。
cで指摘したのは、内部の2本の横画の書き方である。「Z」状に崩す運筆がやはり3資料に一致している。特に珍しい書き方ではないが、それでもこの書き方をする人は、おおよそ4人に1人程度だと思われる。
相当に高度な異字判断
最後にやや珍しい角度からの調査を説明したい。それは、「貝」字などの「左の足」の形状である。図を見て頂くと早いが、この書き手は、連綿体でオレンジ色に塗った形に運筆する。
これは、かなり珍しい書き方である。特に「横」の文字でも「貝」と同じ運筆なのは、稀少筆跡個性と言えるだろう。この微妙な一致は、筆跡を見慣れている私には同一人の運筆だと分かる。裁判官に理解して貰えるか思ったが、思い切って鑑定書に取り上げた。
この運筆の特徴が同一人の筆跡だと理解できるためには、「人の個性」から「運筆」が生じ、「運筆」から「字形」が生じているという一連のプロセスが分かっていないと理解しにくいと思われる。「裁判官にはどうかと思った」というのはそのことである。
鑑定の原理についての考察
ここで、鑑定の原理について少し説明したい。一般に筆跡鑑定は、「字形」と「運筆」で行われている。しかし、私は、それに最大の基礎になる「書き手の性格や個性」というものを加味している。
字形とは、文字通り字の形であり、分かり易い一つの例を挙げれば、角張った楷書的な字形を書く人と、丸みを帯びた行書的な字形を書く人がいる。この二通りの字形を書く人は、おおよそ半々である。
つぎに運筆とは、「筆さばき」のことで、要は筆の動かし方に表れる書き手の癖である。例えば角張った書き方をする人は、一画一画ゆっくりと慎重に筆を動かす傾向であり、丸みのある字形の方は、素早く大胆に筆を動かす傾向がある。
なお、運筆には、その一環として「筆順」や「筆勢」というものもあり、これも鑑定上重要なファクターである。「田」の字の第3画以降を「縦・横・縦」と書く筆順と「横・縦・横」と書く筆順の違いなどは鑑定でよく使われる。
ともかく、ほとんどの鑑定人は、鑑定要素の字形と運筆をほぼ同列に扱って鑑定している。しかし、「字形」と「運筆」は、本来は同列のものではない。「運筆の結果が字形として記される」わけで、運筆は「原因」、字形は「結果」と、本来は次元の違うものである。
しかし、もう一歩踏み込んで、運筆の元は何だろうかと考えれば、そこに、もう一つ深い根源があることに気が付かれるはずである。つまり、角張った文字を書く人と、丸みを帯びた文字を書く人の違いである。
これは、同じ人が書き方を変えるのではなく、どちらかに偏る傾向があるそのことを言っている。つまり、角張る書き方の人をAさん、丸みを帯びて書く人をBさんとしたら、何がその違いを生み出しているのだろうかということである。
ここに、筆跡を形成する最も根源的なものとして、「人の性格・個性」があることに気づかれるであろう。これが、昔から言われてきた「書は人なり」である。つまり、筆跡鑑定は、最後段階の字形から書き手の識別をしているが、一番の源をたどれば、書き手の「性格・個性」に突き当たるのである。
「書は人なり」の原理を生かした私の鑑定
このように考えれば、字形では筆者識別が難しく、運筆でも困難だとすれば、一番根源の「性格・個性」に立ち入らないと、それ以上の追及はできないということに気づかれるであろう。それを研究するのが、筆跡学あるいは筆跡心理学ということで、私はそれを筆跡鑑定に応用している。
つぎの図は、いま説明したことを理解しやすく図形にしたものである。
以上のようなことで、私は、どうしても比較する同じ文字が無い場合は、今回のような方法にも積極的に取り組んでいる。それを支えてくれるのが、筆跡学・筆跡心理学である。
関係者が筆跡鑑定に真実解明を期待される以上、何とかそれに応えたいと研究努力をするのは専門家としての使命である。警察系鑑定人のように保身を考えて消極的に行動することを私は好まない。
ただ、そのためには、鑑定書を読んでいただく皆様に筆跡についての理解力の向上をお願いしたい。今回は、そのために、少しくどい説明になったかも知れない。最後までお付き合いいただいて感謝いたします。
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