左手と右手で書いた文字の鑑定

筆跡鑑定人ブログ-69

筆跡鑑定人 根本 寛
 このコーナーに書くのは、事実に基づく、筆跡鑑定人の「独り言」のようなものです。お気軽にお付き合いいただければ幸いです。ただし、プライバシー保護のため固有名詞は原則的に仮名にし、内容によってはシチエーションも、特定できないよう最小限の調整をしている場合もあることをご了解ください。

 

左手で書いた筆跡を右手の筆跡と照合する

以前、左手で書いた遺言書を右手の筆跡で鑑定した話を書いた。それは、脳梗塞で右手が使えなくなり、やむを得ず左手で書いた遺言書があったのだが、身内で本人の筆跡ではないと主張する人がいて裁判になったケースだった。

その方は、左手で遺言書を書いた後すぐに亡くなってしまったので、照合すべき左手の文字が無かった。やむを得ず、健常時の右手の筆跡と照合したのである。その時は私の鑑定が認められ、判決ではなかったが、限りなく勝訴に近い和解に持ち込めたのであった。

今回のケースも同じような事件で、やはり、左手で書いた筆跡を右手で書いた筆跡で鑑定したケースである。そこで、今回のテーマは、左右の手で書いた場合、果たしてどのような筆跡個性の共通点が表れるのかということに絞って話を進めたい。

つまり、「右手で書こうと左手で書こうと、文字は手だけで書いているわけではなく、脳の言語野に蓄えられた文字データから生まれるのだから、左右どちらの手で書いても共通した特徴が表れるはずである」ということが、実際にどのように表れるのかの検討ともいえる

文字は手が勝手に書いているのではない「脳」のデータが重要

つぎの「事」という字を見て頂きたい。本人の筆跡とわかっているのが対照資料Bで2文字ある。鑑定すべき筆跡は鑑定資料Aで1文字である。あなたは、一見して、同一人の筆跡か別人の筆跡かどちらに見えるだろうか。

一見すると、「強いハネ」の有無や文字の横幅が異なり、別人のように見える部分もある。しかし、全体的な印象は似ているような印象ではないだろうか。それは、つぎのような共通点があるからである。

資料A・Bの共通点の第一は「a」で指摘した第1画・横画の長さである。この横画が標準よりも短く書かれている。これは書道手本と比べるとわかりやすい。左手で書いた鑑定資料Aは、僅かに長めになるが下の「口」字の幅と比較すると短いことは明白である。

つぎに、「b」で指摘の、第2画~4画で作られる「口」字を見て頂きたい。この口字が、縦画を中心として左に飛び出していないだろうか。……多少の程度差はあるが、3文字に一致している。

気づいていない部分には作為は施せない

ところで、この特徴は、拡大し指摘されないと普通は気づかない程度の特徴である。気づかない部分に作為を施すことは考えられない。つまり、この部分には、どのような意味であっても作為はなく、本来持っている筆跡個性が表れていると考えてよいだろう。

また、この口の字の第1画を細かく見ると、資料Bは左に膨らむように湾曲している。これが、資料Aでは逆の湾曲になる。異筆要素ではないかと見る向きもいるかもしれないが、資料Aは左手で書いているためである。

左手で筆を持つと、支点が左になる。その形では資料Bのように湾曲は書きにくく、資料Aのようになってしまうのである。同様に左手では横線も押す形になり書きにくい。「口」字の第3画が省略されていること、また、全体に縦線に比べて横線の方が乱れが大きいのはそのためである。

つぎに「c」で指摘したのは、第6画・横画が左に突出しないことである。書道手本のように左に突出するのが本来の形である。これも、3文字に一致している。この線も、資料Aは特に乱れているが左手で書いているためである。

つぎに「d」で指摘したのは、第5画と第6画で作られる「コ」の字型の厚みである。標準よりも縦に厚みのある形に書かれている。これは、微妙な程度なので書道手本と比べるとわかりやすい。この特徴も3文字によく共通している。

この特徴も、「b」で説明した「口」字の特徴と同じく、一般には気づきにくい部分である。つまり、この特徴にも作為は施されてなく、本来持っている筆跡個性が表れていると考えられる。

横線の上に突出する縦線の長さは人により概ね安定している

最後は、「e」で指摘した第1画の上に突出する縦画の長さである。この3資料はその突出が極めて短い。これは、筆跡心理学用語で「頭部突出控えめ型」と呼ぶ筆跡個性である。

このような突出は、文字が変わっても、短い人は概ね短く、長い人は概ね長くなる傾向がある。これは筆跡心理学の学習をした方は理解している。例えば、本田宗一郎や中曽根康弘などは、この突出の長い「頭部長突出型」である。

以上のように、この「事」文字では、具体的に説明できる共通点が「a~e」の5ポイントがあった。この5ポイントの特徴は、概ね5人に1人程度が書く特徴だと思われる。

5人に1人は20%である。そこから、この5つの一致がどの程度の確率で同一人と言えるのかといえば、「0,2×0,2×0,2×0,2×0,2=0,00032」となり1万人に3,2人しか一致しないことになる。

しかし、このような確率を鑑定書で説明することはめったにない。なぜなら、そのためには、その書き方は何パーセントの人が書くのかを正規にデータ収集しなければならないからだ。

最後に不一致点が一つ残っている。注の「ハネ」である。資料Bは2文字ともしっかりハネが書かれているが、資料Aには書かれていない。この相違点をどのように解釈するかである。

左手では書きにくい字形の考察

これは、資料Aが左手で書かれたとすると不思議ではない。左に支点があると、手前に引くというハネの運筆は、最も書きにくい形といえる。そのための不在であると見て無理はないと思われる。

鑑定では、このような「考察」も大切である。自分の主張と合致しない特徴について、知らん顔している鑑定人が多い。しかし、鑑定人は、自分の主張と異なる部分については、「その理由はこのように考える」という自分なりの解釈を示す「説明責任」があるのである。

……というわけで、この1文字だけの鑑定は、慎重に言っても「ほぼ同一人である」という結論になった。

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