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筆跡鑑定人ブログ-66
- 筆跡鑑定人 根本 寛
- このコーナーに書くのは、事実に基づく、筆跡鑑定人の「独り言」のようなものです。お気軽にお付き合いいただければ幸いです。ただし、プライバシー保護のため固有名詞は原則的に仮名にし、内容によってはシチエーションも、特定できないよう最小限の調整をしている場合もあることをご了解ください。
費用の安い簡易鑑定の利用
都内の高級住宅地に住むYさんのところに、怪文書が届いた。「あなたは不倫をしていますね。止めたほうが良いですよ」との内容。便箋に書かれて封筒に入れられず、裸のまま郵便受けに入っていた。
毛筆で中々の達筆である。裸で入っていたので、近所の人なのは間違いないだろう。もちろんYさんにそんな心当たりはない。絶対に嫌がらせとも言い切れなく、親切心からの行動かも知れない。しかし、嫌な内容で気持ちが悪い。
Yさんには、犯人の心当たりがあった。地域の活動で知り合った町内のある主婦である。その人の筆跡があるので、家族に見てもらったら間違いないという。しかし、ことがことだから専門家に見てもらいたいということである。
こういうときの場合のために、私は「簡易鑑定」という方法を用意している。「簡易」というのは、調べ方を簡易にするということではない。報告書(鑑定書)の体裁を少し簡単にするので、その分、費用が安くて済むということである。
簡易鑑定の世間相場は15万程度だが、私のところは9万円である。長年、相談者の悩みを聞いてきたので、安い費用で疑問を払拭したいという潜在ニーズがかなりあることを知っていた。そういう方に、気軽に使ってもらおうと設定した。
しかし、筆跡の検査と報告は、裁判で使う本鑑定と変わりない。念のためお話しするとこれは私の方式である。鑑定人によっては、「簡易鑑定には筆跡の分析は付けない」という人もいるので、よく確認してお進めいただきたい。
あなたも鑑定をしてみてください
さて、2枚の資料を並べて鑑定に入った。なるほどよく似ている。これでは、普通の人が同一人と思い込むのも無理はない。共通する文字は「ひらがな」しかない。これは、よほどじっくり見ないと分からないなと真剣に取り組んだ。
その一例が、つぎの「ま」の文字である。如何だろう、あなたも同一人の筆跡か否か考えてみてほしい。筆跡は非常に良く似ている。滑らかな運筆の具合などもそっくりだ。幸いなことに、鑑定資料と対照資料に2文字づつある。
鑑定では、1文字しかないのと、2文字以上あるのでは鑑定の精度が大きく違ってくる。仮に1文字しか無ければ、珍しい特徴を発見しても、それが安定した書き手の筆跡個性なのか、たまたまの形なのかは明確に言えない。
しかし、2、3文字にその特徴が表れていれば、それは安定した筆跡個性だと断定できる。だから、私は対象とする文字が複数ある時は、できるだけ数多く取り上げる。10字以上もある場合は、紙面の都合もあるので、その旨を説明してランダムに5字程度に止めることもあるが。
さて、みなさんはこの「ま」字の異同をどうお感じだろう。一見した感じは同一人の筆跡のように見える。書字技量や運筆もよく似ている。鑑定に使った資料なので、「abc」の記号が打ってある。その順番に見て頂けると分かり易い。
あなたも鑑定をしてみてください
まず、「a」で指摘したことである。これは「入筆の角度」である。書き手の分かっている対照資料は、ほぼ水平に入筆する。対して、鑑定資料は、左上から右下に斜めに入筆する。それが2文字づつ安定して表れている。
これは明らかに一つの異筆要素である。同じ人が同じ字を書いた時に生じる変化を「個人内変動」というが、そもそも、このような「入筆の角度」は、変化しにくい部分であり信頼性が高い。
つぎは「b」で指摘した部分、「ループの形」である。これも、鑑定資料・対照資料のそれぞれ2字が、共通した特徴を示し、また、資料同士では明確に違っている。ところで、このように鑑定資料が2字ともに安定した特徴を示していることは、この文字には作為がないだろうということも分かる。
怪文書は、自分の筆跡を隠そうと作為を施したものが多い。そうなると、その筆跡特徴をそのまま鵜呑みにはできないが、このケースはそのようなことはないようだ。ということは、筆跡を見れば誰の文字か分かるほど親しい相手ではないようだし、さほど悪意があるとも思えない。
最後は「c」で指摘した「終筆部の形」である。対照資料は下に向かう。対して鑑定資料は右方向に向かっている。これも明確に異なり異筆要素と言える。
……ということで、この3点の相違点から、どうやら別人の筆跡のようだとは分かった。しかし、万一を考慮し断定までは出来ない。何故なら、人によっては、書くときの条件の違いなどから、この程度に変化する人は絶対にいないとは言い切れないからだ。
別の文字にも共通する筆跡個性が
しかし、次に取り上げた「は」の字で、どうやら別人だとほぼ断定できた。この文字も3点の相違点を取り上げた。まず「a」で取り上げたのは字体全体の形である。対照資料に比べて鑑定資料は横幅が非常に大きくなる。これは、左の縦画と右の2画・3画の隙間が広いからだ。
これは、書道手本と比べるとよくわかる。私は書道手本を使うことが多い。それによって、一見特徴の無いような文字でも、細かな特徴が発見できるからだ。これは、鑑定のきめの細かさにつながる。
この隙間の広さは強い異筆の要素だ。ただ惜しむらくは1字しかないことだ。これが2字同じ特徴を示していたらはるかに説得力がある。1文字では、たまたまそうなってしまったのだろうという反論に弱い。
しかし、「b」と「c」で指摘した部分どうだ。ループの形と終筆部の向かう方向、両方とも「ま」字と同じ特徴を示している。これは強い説得力がある。「ま」の字と「は」の字で同じパターンを示しているから、いわば双方からの証明になる。
複雑極まりない人間を踏まえて判断する
……ということで、この鑑定は、この後3文字の調査を追加して明確に別人であるという結論を出すことができた。依頼者からすれば、いわば空振りで残念ともいえるかも知れないが、誤って人を攻撃することの恐ろしさに比べれば良しとしなければならないだろう。
このように、文字には字体が違っても同じ特徴を示すことは少なくない。このようなとき、私は、「既に○字、□字、△字でも同じ筆跡個性を指摘してきたことでわかるように、これは○○資料の恒常性のある筆跡個性であり同筆を強く示唆している」と、統合的に説明をする。
しかし、警察OBの鑑定書でこのような統合的な説明を見たことはない。これは、科警研の教科書的書籍に「筆跡鑑定は、同じ文字、同じ書体で比較する」と書かれていることと無縁ではあるまい。確かに、全国警察の多くの鑑定人のレベルを揃えようとすれば、あまり難しいことを要求しても無理なのだろう。科捜研鑑定の水準の低さの一原因と思われる。
しかし、人の個性というのは、極めて幅広く多様で複雑極まりない。その人間が、体調の別や筆記用具の別、あるいは、座って書く・立って書く等のさまざまな書字条件の下で文字を書くのである。中には不正な動機で細工をこらす人もいる。私は、この程度の掘り下げをしないと、本当の筆跡鑑定とは言えないと思っている。
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