白洲次郎の筆跡

筆跡鑑定人ブログ-31

筆跡鑑定人 根本 寛
 このコーナーに書くのは、事実に基づく、筆跡鑑定人の「独り言」のようなものです。お気軽にお付き合いいただければ幸いです。ただし、プライバシー保護のため固有名詞は原則的に仮名にし、内容によってはシチエーションも、特定できないよう最小限の調整をしている場合もあることをご了解ください。

 

鶴川村の旧白洲邸を尋ねる

先週の土曜日に、最近テレビで放映されている白洲次郎の旧邸「武相荘」(ぶあいそう)に行ってきた。私の住まいから遠くない、町田市・鶴川に、彼が移り住んだ旧白洲邸が公開されていることは知っていたので、前から一度行ってみようと思っていたのである。
武相荘とは、この土地が武蔵と相模の境界にあるので「武」と「相」を取って、それに「無愛想」をかけて命名したという。

小田急線の鶴川駅から徒歩15分ほどの小高い丘のうえに、昔ながらの萱葺き屋根の母屋と2、3の建物が建っていて、室内には白洲次郎の生活していた様子が再現されている。

白洲次郎は明治35年に兵庫県芦屋の実業家の家の次男として生まれた。歴代にわたり儒者として三田藩に仕えた家柄だそうで、祖父は福澤諭吉と親交が厚かったということだ。父・文平はハーバード大を卒業後、貿易会社「白洲商店」を経営し巨万の富をなした人物である。しかし、後に銀行倒産のあおりをくって倒産した。

白洲次郎は、神戸一中に入学。後に英国のケンブリッジ大学に進み学士を目指していた。しかし、父の会社の倒産で中途帰国を余儀なくされた。このあたりのことはテレビの第一話で紹介されていた。

■白洲次郎の生き方

帰国後は、英字新聞記者を経て商社に勤めた。昭和17年、日本の敗戦を予測し、妻・正子と二人の子供を連れて東京都町田市……当時の鶴川村に移り住み百姓となった。白洲次郎40歳であった。
鶴川村に住むことになったいきさつを、妻の正子はつぎのように書いている。

「鶴川村に住むことになったのは、お手伝いさんの親戚のおまわりさんのお世話であった。このおまわりさんは大変な好人物で、私たちが田舎に家を探しているというと、ぜひ鶴川村に来なさいと熱心に勧めてくれた。しかし、住まいは簡単には見つからず1年ぐらい経っていた。ある日の帰途、こんもりした山懐にいかにも住み良さそうな農家を発見して、『あんな家に住めるといいね』と次郎がつぶやきました。これをおまわりさんは聞き逃さずにいて、早速交渉してくれ、その古民家を買うことができた」

こんないきさつで、白洲一家はこの家に住むことになった。今は住宅が立ち並んで一家が疎開した当時の長閑さこそなかったが、小高い丘に位置する萱葺き屋根のそのたたずまいは、「山懐に包まれた住み良さそうな農家」と正子が言った、その雰囲気が十分に感じられた。

■カントリー・ジェントルマン

英国で学んだ白洲次郎は、紳士道の影響も受けていたが、同時にカントリー・ジェントルマンの生き方を理想としていたようだ。
妻の正子はつぎのように書いている。

「鶴川に引っ込んだのも、疎開のためとはいえ、実は英国式の教養の致すところで、彼らはそういう種類の人間を『カントリー・ジェントルマン』と呼ぶ。(中略)彼らは、地方に住んでいるが中央の政治に常に目を光らせている。遠くから眺めているために、渦中にある政治家には見えないことがよくわかる。そして、いざ鎌倉というときは、中央に出ていって、彼らの姿勢を正す」

今、最も人気のある本だそうです(武相荘で購入したもの)

■マッカーサーにも直言する

しかし、アメリカとの戦争そして敗戦という激動の時代は、白洲次郎に平穏な生活を許さなかった。昭和20年、吉田茂に請われ終戦連絡中央事務局参与となり、日本国憲法成立などに関与した 。

白洲次郎は、持ち前の正義感でGHQ司令官であるマッカーサーなどに対してもズバズバとものを言った。アメリカ人に対等にもののいえる、例外的な日本人としてアメリカ人の間でも有名になったらしい。
マッカーサーに対して、人として非礼ではないかと食って掛かる場面が、テレビの第2話で紹介されていた。

このあたりが、経済大国にはなったが、アメリカ追従で今ひとつプライドを持てない今の日本人に受けるのではないか。

その後、白洲次郎は、貿易庁長官に就任し通産省を誕生させたり、東北電力会長なども務め、85年に逝去するのであるが、このあたりの話は出版物もいくつもあるし、テレビでも紹介されているのでこのくらいにしたい。それよりも武相荘に行って、白洲次郎の筆跡を手に入れたので、わたしの専門とする筆跡心理学の面から白洲次郎の人となりを探索してみよう。

■自由と平明さの溢れた筆跡

つぎの文字は、白洲次郎の筆跡である。これは、旧白洲邸で見学者用に用意してある記念スタンプの文字である。実は「武相荘」の文字は二つあり、パンフレット等に使われているのは、司法大臣を務めた風見章氏に書いてもらったものである。
しかし、つぎの文字は風見氏の筆跡ではなく白洲次郎の自筆である。

まず、全体を見て目に付くのは、無駄な力の抜けた、大きく省略した美しい書体である。力みや頑張りといった感じがなく、スッキリとして洒落ている。しかし、ルーズな感じはなく、自由と平明な感覚が横溢している印象がある。

この自由と平明さがどこから来るのかといえば、「武」などの横線が水平に書かれていることにある。横線は、右上りだと常識的・伝統的な心理の表れ、右が下がると、批判精神の強い評論家的資質を表す。普通では満足しない深層心理が表れた形だからである。

しかし、白洲次郎の場合は水平である。水平は、右にも左にも偏らない公平な心理の表れである。カントリー・ジェントルマンの暮らしを理想とする白洲次郎の生き様がよく表れているような書体である。
「武」の長い右払いは、感動してのめりこんでいく一途な情熱があらわれている。白洲次郎は吉田茂が好きで請われて大変な尽力をしている。このことについて、神戸一中の同級生で文学者の今日出海氏はつぎのように書いている。

「どういう風に吉田首相と彼が結んだかその経緯を知る由もないが、彼の感覚で屹度爺さんをただ好きになっただけだろう。彼が人を好きになるというのことは全く単純で、且つ甚だ正常な理由からだろうと思う」
(文芸春秋臨時増刊・人物読本1951年2月)

つまり、本質的に素直で純粋な感情の持ち主であったようだ。テレビでは、日本の行く末を案じて英国に行き、彼の国の要人たちに、日本を助けてくれと熱弁を振るう姿が写されていたが、これは、紳士道を大切にした白洲次郎としては、いかなる時でも感情におぼれず理性を重んじる英国の紳士道とは少々異なるようだ。これは、日本人として大切にすべき、ナイーブな感性の発露であったのだろう。

「木偏」では、横画の上に突出する縦画の長さが短い。そして転折部が丸く運筆される。これは、人を支配しようとしない、そして、自分の好みは心の奥に秘めながらも、周囲との協調を図っていこうとする彼の本質を表している。

何よりも素晴らしいのが「相」字の偏と旁の間の広さである。このような部分を広く書くのは、人の意見に耳を傾けることのできる心の広さを示している。包容力といってもいいし、窮屈なことを嫌う性格の反映ともいえる。

白洲次郎は、自信家でズバズバとものを言うイメージがあるが、自信家であること自分のプリンシプルを大切にすることはそうだろうが、決して傲慢ではなく、人に対しては常に心を開き、むしろ謙虚な人柄であったと思われる。

白洲次郎を知れば知るほど、このような人生を送りたいものだと思わせられる。
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