スペシャル ポイント鑑定

筆跡鑑定人ブログ-84

筆跡鑑定人 根本 寛
 このコーナーに書くのは、事実に基づく、筆跡鑑定人の「独り言」のようなものです。お気軽にお付き合いいただければ幸いです。ただし、プライバシー保護のため固有名詞は原則的に仮名にし、内容によってはシチエーションも、特定できないよう最小限の調整をしている場合もあることをご了解ください。

 

「心理学」が分からない鑑定には限界がある

裁判官を含む司法の世界では、筆跡鑑定の信頼性は限定的であると言われている。指紋やDNA鑑定のように数値的にはっきり明示できないからである。しかし、それは、私に言わせると半分は正解だが、半分は理解不足だと思う。

私は、ホームページでも「精密鑑定」を標榜している。それは、多くの警察官OBの鑑定人よりも、ずっと深く掘り下げて精密な鑑定をしているという自負があるからだ。具体的に言えば、多くの鑑定は、「ここが類似している」「ここが相違している」というものを積み重ねて、同筆、異筆としている。

しかし、私は、「この筆跡特徴はA氏にしか書けない、B氏には絶対に書けない」というレベルまで追い込んで鑑定をしている。それは、技術もの問題もあるが、何と言っても、筆跡というものの本質への理解力の違いがあるからだと考えている。

警察系やその他の鑑定では、鑑定が成立するのはつぎの三つの要因があるからとしている。
1.筆跡個性……筆跡に表れる書き手の個性、「筆跡癖」ともいう。
2.恒常性……何回書いてもほぼ同じ特徴が現れること。
3.希少筆跡個性……ある人の筆跡に表れる固有の珍しい特徴。

これは誤りではないが、これらの要素の元になる大事な根本を見落としている。それは「筆跡の無自覚性」ということ。つまり、「文字を書くという行為は、ほとんど自覚されないで行われている」という本質の理解が不足しているということである。

筆跡の「無自覚性」とは

「筆跡の無自覚性」と唐突に言われても納得できないのではないかと思う。これは、私たちは「何を書こうか」ということは意識で理解しているが、「どのように書こうか」ということは意識できない脳(潜在意識)に任されているということである。

具体的には、「東京」と書こうということは自覚している。しかし、「横画はどの程度の長さにするか」「ハネの強さはどうするか」というような具体的な形は普通は意識していないということである。それを「筆跡の無自覚性」といっている。

もちろん、意識がまるっきり介在しないというのではない。例えば毛筆で書き始めをしようとするなら、横画の長さやハネの大きさや形も意識し、実際の運筆(筆運び)も、かなり程度は意志の力でコントロールするであろう。

しかし、このように自覚して行動するのは現実にはレアケースである。大部分の書字行動は、そのような意識はなく、特に意識せず書いているというのがほとんどである。意識していなくとも間違いなく書けるのは、文字を書くという行動は、本質的には、私たちが意識できない「深層心理」によって管理されているからである。

深層心理とは脳科学でいう「潜在意識」とほぼ同意義語である。私の経験では、司法関係者には「心理学」という言葉はあまり好まれてはいないようだ。その原因の一つは、法務の世界と心理学とは、対極にあるようで接点がなかったためだと思われる。そこから、法学系の方に、心理学というと何か信用できないといった「いわれなき偏見」があるように思われる。

文字を書くことを含め、行動の大部分は「潜在意識」によって管理されている

ともかく文字を書くという行動を含め、人の行動の大部分は潜在意識によって行われているということは脳科学の常識になりつつあるようだ。脳科学の第一人者「池谷祐二」さんも、著書『脳には妙なクセがある』(扶桑社)の中で、ガルディ博士の実験を説明して、「無意識の自分こそが真の姿である」(256頁)と説明している。

これを、行動レベルで言えば、たとえば皆さんが「八時には家をでよう」ということは当然自覚している。しかし、どのように「顔を洗い」「ネクタイを締めたか」というような、具体的な行動レベルで見ればほとんど自覚しないで行っているということである。無自覚でも間違いなく出来るのは潜在意識によってコントロールされているからである。

ということで、筆跡鑑定の原点である、文字を書くという行動そのものが、大部分が無意識・無自覚に行われている。そして、この無自覚こそが筆跡鑑定を成り立たせている根幹である。

多くの鑑定人は、この、筆跡鑑定の依って立つ根本を十分に理解していないために、ともすれば表面的な鑑定に終始していると思われる。

筆跡鑑定は、書き手が無自覚性で行っているからこそ、ある書き手の識別がシビアにできることになる。また、作為のある文字……つまり、他人の筆跡の偽造をしたり、自分の筆跡を隠そうとする韜晦(とうかい)筆跡の見抜きも高い精度で行うことが出来るのである。

人が普通に書く筆跡を「自然筆跡」という。自然筆跡は、潜在意識によって無意識に書かれるため、筆跡個性には混乱なく一定の安定した筆跡が表れる。これを「筆跡個性の恒常性」と呼んでいる。何回書いても、ほぼ安定した特徴が現れるからだ。

しかし、その恒常性のある筆跡に、意識で調整を加えようとする(作為)と、本来の自然さは失われ、筆跡個性の混乱が生じることになる。鑑定人は、それを発見し「作為筆跡」であることを見抜くのである。

筆跡の無自覚性とは、言ってみれば「筆跡個性」や「恒常性」、「希少性」といった「鑑定の七つ道具」を入れたカバンのようなもので、このカバンこそが、鑑定の七つ道具を生かす大本になっているのである。

もちろん、筆跡個性が、潜在意識から生じていることを知らなくとも鑑定はできるが、やはりその原理を理解しているのと理解していないのとでは、難しい判断などの際に違いが出てくることは明らかだである。

意志の力で行えることと、そうはいかないこと

鑑定で難しいのは、自然筆跡ではなく作為のある筆跡である。AとBの筆跡にごく僅かな相違点しかない場合、その相違点が、潜在意識から自然に生じているものなのか、それとも意識によって調整された筆跡……つまり作為的なものかの判断が求められる。

例えば、他人の筆跡を偽造しようとした場合は、犯人は、本人の筆跡を手本にして模倣をすることになる。このとき、その手本を見て気が付いた特徴は模倣することができる。しかし、当然だが、気が付かない特徴は模倣することはできないことになる。

これは、自分の筆跡を隠蔽しようとする韜晦筆跡でも同じことで、「自分はこのような特徴のある文字を書いている」という自覚が無くては、それを隠す文字は書けないということである。

筆跡にうまく作為を加えるには、つぎの三つの要件を満たさないとできないのである。
1、他人なり、自分なりの筆跡特徴が細部までよくわかっている。
2、それを模倣して書き切るだけの注意力の持続ができる。
3、上手い人の運筆を真似られる技量(筆力)がある。

第一に、「他人なり、自分なりの筆跡特徴が細部までよく知っている」ことは、一般にあり得ないことである。たとえば、わが社の住所の「藤」という文字を考えてみても、多くの画線がそれぞれどのような特徴を持っているのか、直線なのか、湾曲するのか、湾曲するとしても右なのか左なのか、というような微妙な特徴を理解している人はほとんどいないものである。

さらに、画線の組み合わせである「字画構成」の特徴はどうか。画線と画線の接合部はどうなっているにか、交差部はどのように交差しているのか、交差した角度はどうなっているのか、などが分かっている人も更にいないのである。

そこで、我々は、そのような、一般に気づかないと思われる箇所を「スペシャル ポイント」と名付けて、意識的に鑑定に取り入れるようにしている。少なくとも一文字に一カ所程度は必ず取り入れるようにしている。

全体で10文字鑑定するとして、全文字にスペシャル ポイントによる検証を行っていけば、「この筆跡はA氏にしか書けない、B氏には絶対書くことはできない」といえるだけの信頼性の高い鑑定になると考えている。

作為文字の第二は、仮にその特徴が分かっているとしても、つぎには、その特徴を、意志の力で注意力を保って書き切るという集中力が要求される。これは、多少の個人差はあるものの、「藤」くらいの画数の文字の、それぞれの特徴を捉えて書き切ることは、人間の集中力から見て一般には不可能だと思われる。

そういうことから、作為文字は、文字の書き始めや、特に目立つ箇所や、あるいは終末あたりの強い特徴などに限定されることが多いことになる。結果、書き始めや目立つ箇所だけが類似して、そうではない微細なところは相違するというおかしな状況になり、それがまた、作為文字であることを証明することになるのである。

第三に、仮に……まさに仮に、以上の二点がクリアされたとしても……あり得ないことであるが、第三には、それらの模倣を自然にスムーズに書き切る技量(筆力)がないと模倣はうまくいかない。この三つのハードルをクリアできる人には、まだ、ぶつかったことがない。

模倣の技術的な面からは、字を書く技量の低い人、つまり下手な人が、上手い人の筆跡を模倣することは、どうあがいても不可能なのである。そして、下手な人は自分の下手さ加減が分からない。我々が見ると、尻尾の見えた狐か狸になってしまうのである。

司法関係者に心理学への理解を求めたい

……ということで、私はスペシャル ポイントを活用し、多角的に筆跡個性を分析し、また、原則的に複数の資料で筆跡個性を検証している。その結果、ほとんどの鑑定で、「この筆跡特徴はA氏にしか書けない、B氏には絶対に書くことはできない」というレベルまで追い込んで鑑定をしていると言えるようになった。

とは、言っても、このような分野の追及は、まだまだ緒に就いたばかりである。筆跡鑑定とは、人間の心理と頭脳が織りなす分野への挑戦といえる。

この分野の水準を上げるには、心理学面からのアプローチがなければ、現状以上の水準は無いだろうと考えている。司法関係者のご理解を希求すること大である。

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