ドメスティック・バイオレンス

筆跡鑑定人ブログ-12

筆跡鑑定人 根本 寛
 このコーナーに書くのは、事実に基づく、筆跡鑑定人の「独り言」のようなものです。お気軽にお付き合いいただければ幸いです。ただし、プライバシー保護のため固有名詞は原則的に仮名にし、内容によってはシチエーションも、特定できないよう最小限の調整をしている場合もあることをご了解ください。

 

長身の美女の訴え

横浜のある弁護士事務所から電話があった。過去に一回仕事を引き受けた事務所である。筆跡鑑定の必要な依頼人がいるので、引き受けてくれるかという問い合わせである。断る理由などあるはずもない。喜んでお引き受けしますと答えた。
二日ほどして、その依頼人が現れた。30歳そこそこで長身、なかなかの美女である。
話を聞くと、離婚問題である。夫の暴力が酷くて一年前に家を出て、夫の知らない親戚を転々としているとのことである。最初は実家に戻ったが、夫が押しかけてきて車で玄関に突っ込み玄関を壊した。それで実家にいるわけにもいかずに、何軒かの親戚に世話になっているということである。

■夫は元プロレスラー

「ご主人はあなたに暴力を振るうのですか」とたずねると「いえ、そうじゃないのです。実は1歳の一人息子がいるのですが、息子に暴力を振るうのです。夫は元プロレスラーですが、腹を立てると子供の片足をつかんで逆さにぶら下げるのです。私はそれを見て、これは一緒には暮らせないと決意したのです」
私は、大男が小さな幼児の片足を掴みぶら下げて立っている姿を想像した。「なるほど、それは怖いですね」

■ 偽造の離婚届け

彼女は書類を取り出した。「離婚届け」の用紙である。「実はこれを夫が送ってきたのです。私が署名したことになっていますが偽筆なのです」なるほど、夫の署名欄も妻の署名欄もすべて埋まっている届出済のコピーである。
「私の署名が偽造だということを、鑑定書で証明していただきたいのです」
私は疑問を感じて尋ねた「あなたは、さっき離婚の手続き中だといいましたよね。変な話ですが、とりあえず離婚が成立したことになっているのなら、いいようなものじゃないのですか。何も高い金をかけて鑑定書をつくらなくとも。……それとも慰謝料とかの問題ですか」
「そうじゃないのです。先生、ここを見てください」彼女が指差すところは「親権を行う者」の欄、その夫の欄に息子の名前が書いてある。つまり離婚の結果、夫が法律上の親と認められている形である。
「これが困るのです。私は慰謝料なんか一銭もいりませんが、子供だけは絶対に夫に渡す気はないのです」
「なるほど、よく分かりました。それでは、筆跡を見てみましょう。あなたの筆跡を証明するものを見せてください」
点検すると、確かに彼女の筆跡ではない。そんなわけで、私は鑑定書を作り、彼女は偽造離婚届けの無効を訴えて、本来の離婚訴訟を進めたというわけである。

■馬鹿な男の一芝居

約1年後に、晴れ晴れとした顔で彼女が尋ねてきた。「先生、おかげさまで、正しく離婚が成立し、私が子供の親権者として認められました」

この話には後日談がある。私が、署名は誰が偽造したのか分かりましたかと聞くと、「夫の弟でした。後で夫が私に白状しました。一晩練習して書いたそうです」
夫は彼女に惚れていた。彼女と連絡を取りたい一心で離婚届けを偽造したらしい。彼女は音信不通の状態にして夫から逃げ回っていた。そこで、夫としては、子供を取り上げた離婚届けが彼女のもとに届けば、連絡をしてくるだろうと考えたらしい。
一見落着でほっとしたと同時に、馬鹿な男とはいえ、彼の心を考えると、ほろ苦い気持ちの結末であった。
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メール:kindai@kcon-nemoto.com

話数 筆跡鑑定人ブログバックナンバー
第八十八話 遺言書の偽造あれこれ
第八十七話 筆跡鑑定における経験則とS/N比
第八十六話 筆跡鑑定の誤りは何故発生するのか
第八十五話 一澤帆布の遺言書事件の教訓
第八十四話 スペシャルポイント鑑定
第八十三話 「季節外れのカニ鑑定書」とは
第八十二話 小澤一郎夫人の離婚状
第八十一話 オウム・高橋克也と早川紀代秀の筆跡
第八十話 異なる文字による筆跡鑑定
第七十九話 舞の海は筆跡も「八艘飛び」?
第七十八話 小沢一郎も関係?藤井裕久の筆跡鑑定
第七十七話 英文署名の筆跡鑑定
第七十六話 NHKから依頼された「孫文」の筆跡鑑定
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第七十五話 「ひらがな」による筆跡鑑定
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第七十三話 浅田真央さんと安藤美姫さんの筆跡
第七十二話 狭山事件・石川一雄さんの手錠を外したい
第七十一話 警察系筆跡鑑定の問題点
第七十話 岸恵子さんと島倉千代子さんの「超越文字」
第六十九話 左手と右手で書いた文字の鑑定
第六十八話 「作為文字」の正しい鑑定とは
第六十七話 吉行淳之介と野坂昭如の筆跡
第六十六話 「不倫はやめなさい」という怪文書の鑑定
第六十五話 誤字は筆跡鑑定の宝物
第六十四話 豊臣秀吉の大きな錯覚
第六十三話 運を開く遠藤周作の筆跡
第六十二話 企業における筆跡鑑定研修の必要性
第六十一話 クレジット会社の恐るべき不誠実
第六十話 新田次郎の筆跡を見る
第五十九話 左手で書いた遺言書を右手の筆跡で証明
第五十八話 開高健の筆跡を読む
第五十七話 暴力犯の筆跡
第五十六話 松下幸之助の筆跡
第五十五話 「いい仕事をしてますね」の中島誠之助さんの筆跡
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第五十二話 一澤帆布事件の真相
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第四十九話 ビデオ流出海保安官ってどんな人間?
第四十八話 筆跡鑑定の工夫
第四十七話 異なる文字では鑑定はできないのか
第四十六話 君が輝いていたころ
第四十五話 多くの筆跡鑑定書の問題点
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第四十三話 筆跡鑑定のカギ・筆跡個性
第四十二話 私が誤った鑑定書を憎む理由
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第十一話 畠山鈴香と酒鬼薔薇聖斗の筆跡
第十話 プロの目・アマの目
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第四話 営業マンの犯罪
第三話 間違いのない鑑定依頼の方法
第二話 変体少女文字の怪文書
第一話 ちょっとした工夫で納得性を高める