一澤帆布事件では何故警察の筆跡鑑定が敗れたのか

筆跡鑑定人ブログ-30

筆跡鑑定人 根本 寛
 このコーナーに書くのは、事実に基づく、筆跡鑑定人の「独り言」のようなものです。お気軽にお付き合いいただければ幸いです。ただし、プライバシー保護のため固有名詞は原則的に仮名にし、内容によってはシチエーションも、特定できないよう最小限の調整をしている場合もあることをご了解ください。

 

■遺言書をめぐる係争で警察系の鑑定人・三人が敗れる

平成20年11月、大阪高裁は京都の人気かばん店「一澤帆布」の遺言書をめぐる争いに逆転判決を下した。

この事件は、2通の遺言書があり、後から書かれた遺言書の真贋が争れた事件である。一審では本物とされ、長男の一澤信太郎が勝訴したが、今回はその筆跡鑑定が覆され三男・信三郎の勝訴となった。

この判決について、東京新聞が08-11-29日の「こちら特捜部」で全紙大の特集をし、警察関係者3人の筆跡鑑定を厳しく批判している。その趣旨は、奇しくも「鑑定人日記28」に書いたこととほぼ同じである。

すなわち、それは、第一に警察関係の鑑定人は「科学捜査研究所」(科警研)などと標榜しているが、その鑑定には「科学」などはまったくなく鑑定能力が信頼するに足らないこと、第二にこれら警察やそのOBを偏重してきた「鑑定界」の構造の問題。鑑定界といったが、これは司法を含んでいることはいうまでもない。第三には筆跡鑑定人を国家資格などにして鑑定水準を上げることの必要性である。これは、私が今までに主張していたこととほぼ同じである。

そこで、わが国の警察系の筆跡鑑定のどこが問題なのか。過去に書いたことと一部重複するが具体的に整理して見たい。特にこの項は弁護士さんや真剣に筆跡鑑定を検討する必要のある方には役に立つはずだと思う。

■警察系鑑定人のどこに問題があるのか。

司法を含む鑑定界の構造問題は「鑑定人日記28」に書いたので割愛し、ここでは多くの警察出身の「鑑定技術の問題」に絞って説明したい。そもそも正しい筆跡鑑定の進め方はつぎのような3ステップになる。

【1】 鑑定資料から、書き手固有の筆跡個性を特定する。
【2】その筆跡個性を対照資料と比較する。
【3】総合考察をして異同(一致・不一致)を判定する。

この3ステップのなかで、なんといっても最も重要なのが(1)の「筆跡個性の特定」である。これが偽造などの懸念がなく、しかも筆跡個性の安定した人ならば話は簡単だ。つまり事務員や書記など、普段から文字を書くことが仕事の一部であるような人だ。このような人は筆跡が安定しているので鑑定は容易である。

しかし、現実には様々な立場の人がいる。普段からあまり文字を書かない人、書写行動の不自由になった高齢者などは、その筆跡が不安定だ。たとえば「一」という字を書いても、末尾が上に反ったり、下に垂れたりする。このような違いをとらえて異筆(別人の筆跡)としてしまう鑑定人が少なくない。これらの鑑定人は筆跡個性の理解が不十分なのである。

筆跡鑑定は、事象的には「字形の違い」を追及するが、それは単純に字形の異同を調べることではない。本質は「字形に表れた個性」を調べるというべきである。だから、特徴のある字形があっても、それが本当に書き手の個性なのか単なる個人内変動なのかの見極めが重要になる。

■対照文字が複数個あっても一字しか取り上げない鑑定人がいる。

この見極めが難しいのは、前述した「筆跡の乱れの大きな人」(個人内変動が大きい人)と、偽造が懸念される場合である。個人内変動が大きい人の場合、鑑定すべき文字と対照すべき文字が、一個づつしかないとしたら筆跡個性を正確に特定することは困難である。ある特徴が見つかったとしても、その特徴がたまたまのものか、恒常的な筆跡個性であるのかの区別がつかないからである。

鑑定資料に一字しかないケースは少なくないのでやむを得ないが、対照資料に複数個あっても一個しか取り上げない鑑定人がいる。これは筆跡個性についての理解が不十分のためである。

つぎは、私の鑑定書の一部であるが、資料Aは鑑定資料、資料Cは対照資料である。このAとCが同一人の筆跡か否かを鑑定するもので、結論は別人の筆跡である。この場合a~dの4箇所を指摘しているが、これが鑑定、対照それぞれ1文字づつしか無いとしたら、この4点の指摘は出来ないだろう。

たとえば、aで指摘した「横線の上に縦線が突出する長さ」にしても、確かにAとCは長さは異なっている。しかし、鑑定、対照資料が1文字づつしかなければ、この違いはたまたまの個人内変動か別人ゆえの違いかは判断できないのである。特に、このような字画線の長さというものは、変化しやすい代表的なものなので1字で断定することは危険である。

筆跡鑑定の第1ステップの「筆跡個性の特定」という重要な場面で、このように、「個人内変動が大きい人」と、「偽造が懸念されるケース」では、1文字からでは明確な特定は出来ない。警察系の鑑定人は、それを平気でやっていて、高齢で書写行動が不自由ゆえの個人内変動を捉えて、別人とする鑑定書を見ることが少なくない 。

■警察系の鑑定は自分の判断に合致しない部分への説明がない。

第二のステップは、特定した筆跡個性を対照資料と比較することである。ここでの主な問題は、自分の判断に合致しない部分があったとして、それが何故生じているのかを説明しない鑑定人が少なくないことである。

??? 筆跡鑑定は、始めに結論ありきではない。鑑定を1つ1つ進めていった結果到達する結論である。しかし、実際には、鑑定前におおよその方向性を確かめてはじめることが多い。

依頼者にすれば必要でもない鑑定書が出来上がっても困るので、事前調査である程度確認して取り掛かるからである。あるいは、そうでなく、鑑定をある程度進めて、鑑定人がイエス・ノウどちらかの心証を得ている場合もある。

そのような場合、仮に自分の判断と異なる筆跡特徴が出てきたとしたら、鑑定人は、それを隠すことなく指摘して、それがいかなる理由で表れているのかを、考察し説明しなければならないということである。

筆跡とは、「全てを合理的には説明しきれない人間の行動」から生まれている。「白」と判断してきた文字群だが「黒」としか見えない部分が表れることがある。そのような場合、頬被りしてしまう鑑定人が少なくない。

しかし、そうではなく、仮に推察であってもこのように推察するという説明が必要なのである。それは専門家としての使命といえる。

つぎの図は、資料AとBが同一人の筆跡か否かを調べるものであるが、結論は「同一人の筆跡」である。この文字は鑑定も終わりの頃に出てきたものだが、この文字には、明確な相違点がある。終筆部の「ハネ」の有無である。

実は、資料A・Bの文字は書かれた時期がかなり異なっている。資料Aは78歳時のもの、資料Bは45歳時の筆跡である。私は、このハネの有無を経年変化と理解した。そこで、鑑定書にはつぎのように説明した。

「dで指摘した『ハネの有無』であるが、ここは明確に相違している。しかし、これが異筆の要素とまではいえない。二つの筆跡には33年の時間差がある。経年変化が少ないといっても、このような変化はありうるものである」

このように、自分の判断と異なる部分については、鑑定人は説明責任があるのだが、これを行う鑑定人はめったにいない。

■警察系の鑑定では、単純に一致・不一致の数で判断することが多い。

第三のステップは、比較検討してきたことを総合的に考察して異同を判断することである。これが筆跡鑑定のまとめであり、肝心かなめの部分であることはいうまでもない。

ここでの問題は3点ある。第1に一致であれ、不一致であれ、その重要度についてプライオリティをつけないことである。一致といっても「ごくありふれた特徴の一致」もあれば、「めったに見ない稀少な筆跡個性の一致」もある。

たとえば、つぎの図を見て頂きたい。資料A・Bが同一人の筆跡か否かを調べるものである。

ここでは、指摘した3点のうち2点は一致している。このような場合、警察方式では「一致=2、不一致=1」として、「一致が多いから同筆」と見るらしい。そのように説明しているものを見たことがあるし、実際の鑑定でもぶつかったことがある。

しかし、これはどう考えてもおかしい。たとえばこの例でも、aとbで指摘した特徴はきわめてありふれた特徴である。この程度の特徴の人間は、少なく見ても4~5人に1人程度はいるだろう。
一方、cで指摘した「二つの木の字をクロスするように書くこと」はかなり稀少な特徴である。このような書き方をする人間は20人に1人程度しかいないのではないか。このような大きな違いを同列に見るというのはあまりに機械的であり、真実の究明からは極めて大きな問題である。

■警察系の鑑定では「模倣困難部分」と「模倣容易部分」の区別をしないで扱うことが多い。

異同判断の問題第2は、偽造が想定される場合、偽造しやすい部分としにくい部分の区別をしないということである。たとえばつぎの図を見て頂きたい。鑑定資料Aは偽造したものである。この書き手は、aで指摘した転折部を本来は丸く書いている。しかし、ここでは角型に書いている。これは、偽造すべき文字が角型なので模倣したのである。また、強いハネも模倣である。

このような部分を模倣することは難しくない。なぜなら誰でもすぐに気がつく部分だし、この程度なら意識でコントロールできるからである。しかし、注意して欲しいのは内部に書かれた2本の横画である。

対照資料Bは、2資料ともに、2本の横線が中央に寄って書かれている。2資料に書かれているので、安定した筆跡個性だといえる。しかし、資料Aはそうではなく2本の横線が開いた形になっている。これは、偽造者の本来の筆跡個性が露呈したのである。

??? このように、誰もが気付く、かつ、簡単な部分は容易に模倣することができる。しかし、普段から意識されない部分、あるいは気付かない部分に作為を施すことは出来ないはずである。

説明した「月」の文字の文字でも、内部の横画は拡大し指摘されれば気付くが、普通は意識しないで書いている人がほとんどだろう。したがって、このような部分に作為を施すことは難しいのである。

もう一つ例を挙げれば、一番最初に掲げた書の文字であるが、上部と下部の「日」の間の隙間がポイントである。鑑定資料はcで指摘したように「隙間が大きい」、対して対照資料は「隙間が小さめ」である。このような部分を意識して書いている人、あるいは気付く人は少ないだろう。したがってこのような部分も模倣はしにくいのである。

警察鑑定では、このような「模倣困難部分」と「模倣容易部分」の区別をしないで扱うことが多い。これでは真実には迫れないのである。

■警察系の筆跡鑑定は考察が浅く表面的・機械的である。

このように見てくると、警察系の鑑定に共通する問題点として、「深い考察がなく、表面的・機械的な判断に終始する」という欠陥があることがわかる。したがって、少し複雑な筆跡鑑定や、偽造が疑われるなどの難しい筆跡鑑定には対応能力が足りないのである。

今回の一澤帆布の逆転判決の要因となった筆跡鑑定は、微妙なポイントが二つくらいしかなく難しい鑑定である。このようなテーマには警察系の鑑定能力では不十分だと思われる。

私の日本筆跡心理学協会では、筆跡鑑定の通信教育を行っている。一澤帆布の件で大阪毎日テレビの取材を受けた。そこで、「筆跡鑑定の能力が通信教育で身に付くのですか?」と質問されたが、私は「現在、現職でやっている鑑定人以上の力は十分に付けられます」と答えた。

それは、筆跡鑑定人に求められる能力を4年くらいかけて整理してみた結果、自信があるからである。必要能力を一つ一つピックアップし、それを整理してみると、A4版200ページほどのテキストに全てまとめることが出来た。と同時に、文書を扱う筆跡鑑定は意外に通信教育に適していることがわかった。

??? そのテキストと現実的なリポートを組み合わせれば、現状の筆跡鑑定人以上の能力を身につけて頂くことは十分に可能だと自信がある。最終的には若干の対面教育を想定しているが、本質は通信教育で十分である。

私は、倫理性と鑑定技量の高い鑑定人を増やして、わが国の鑑定能力を高め、司法の信頼向上に貢献したいと思っている。
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