筆跡鑑定人の悩み

筆跡鑑定人ブログ-40

筆跡鑑定人 根本 寛
 このコーナーに書くのは、事実に基づく、筆跡鑑定人の「独り言」のようなものです。お気軽にお付き合いいただければ幸いです。ただし、プライバシー保護のため固有名詞は原則的に仮名にし、内容によってはシチエーションも、特定できないよう最小限の調整をしている場合もあることをご了解ください。

 

個人内変動が筆跡鑑定を難しくする。

何といっても筆跡鑑定を難しくしているのは「個人内変動」の存在である。個人内変動とは、同じ人が同じ文字を書いた時に生ずる変化のこと。この変動が人により大きく違うのでこれが鑑定人を悩ますのである。

筆跡鑑定は、A・B二つの文字を比較して、同じ人によって書かれたものか否かを判断するのだから、その筆跡の変化の程度によっては同一人の筆跡か別人の筆跡かの判断……つまり異同判断が非常に難しくなるのだ。

難しさの第一は、個人内変動というものが、人により大きく差があることである。ある人は、それこそコピーではないかというくらい変化なく安定した筆跡の人がいる。反面、書く都度に別人かと思われるほど筆跡が変わる人もいるからである。

第二に難しいのは、鑑定人としては鑑定を進める過程で異同ははっきりしてくるのだが、しかし、これを読み手(依頼人、相手側、裁判官)にどのように説明すれば理解し納得していただけるか、その説明がなかなかに困難なのである。

相手方は何であろうと嘘だろうと考える

読み手によっては、「この違いは個人内変動」、「これも個人内変動」と説明していくと、鑑定人が自分に都合のいいように言っていると受け取り信用しない傾向がある。

それはそうだろう、こちらの結論は「同一人の筆跡」と判断しているから、筆跡の違いについては、当然、個人内変動と説明する。しかし、相手としては「別人の筆跡」と思いたいのであるから、個人内変動であってもそうではなく別人なるが故の違いと見てしまうのである。

筆跡鑑定人としては、毎日のように筆跡を見ているから、同一人でもこの程度の変化はあり得ること、この変化はあり得ないと確信して説明している。しかし、この違いはアマチュアには分からない。これが悩みのもとになる。

できれば、その違いを乗り越えさせてくれる、別人には到底書き得ないと誰もが納得してくれる強い筆跡個性の一致があれば問題はないのだが、なかなかそう都合よくいくものではない。

具体的なケースを示そう

以上のようなケースを実例で示そう。図1が今回の鑑定の筆跡である。書き手を解明しなければならない鑑定資料Aは遺言書で、80歳のときの筆跡である。書き手の判明している資料Bは本人の2冊の手帳の筆跡で、遺言書より30歳も若い50歳の頃の筆跡である。この資料A・Bを比較することになる。

筆跡個性は、一般に30代半ばにはほぼ固定化し、それ以後は特に書道を習うなどしない限りさほど変化するものではない。私は22歳の大学卒業時の入社作文と40代になってからの業務報告書を比較して鑑定をしたことがあったが、その人の場合は、20年も経過していながら全く筆跡の変化がなく驚いたことがある。つまり、この人の場合は、大学卒業までに相当量の文字を書いていて、そのため安定したものらしい。

そんなわけで個人差はあるものの、概ね最初に述べたように30歳にもなっていれば、その後の筆跡個性の変化はさほどではない。筆跡とは人の顔立ちのようなもので、青年のころの顔を知っている人には、その人が老人になっても見分けが付くこととよく似ている。

そんなわけで、一般に、筆跡鑑定では50歳のころの筆跡と80歳の比較することは特に問題はないのである。

最初の「永」字は同筆の可能性が高い

さて、最初は「永」字の筆跡である。この「永」文字では、a、b、cの3点を指摘した。aで指摘したのは「第1点画の角度」である。これは、対照資料Bは1文字は一致するが1文字は不一致である。しかし、これは書き手の判明している対照資料なのだから、むしろ、この程度の個人内変動があるのだという証明になる。

bで指摘の「『フ』字が小さく書かれること」は、やや強い筆跡個性であり、これは資料Bの二つとも一致していて明確な同筆要素といえる。しかし、Cで指摘した「第4画の始筆位置」は、資料Aは標準的な位置だが資料Bは2字とも高い位置から始筆し明らかに字形が異なっている。

この違いは、50歳という現役の年代では、資料Bのように力の入った運筆であつたものが、80歳という高齢になって余分な力が抜けた結果だろう。個性としては、いわば若い時の「剛」から「枯淡」へと変化したわけで、これは加齢による変化として説明すれば、一応理解して貰えそうである。

このようにして、「永」字は、6箇所の指摘(指摘箇所×文字数)中、一致・不一致が3箇所づつで、単純に異同数から言えば引き分けである。しかし、このケースでは、相違箇所は個人内変動として一応の筋道が通り、理解して貰いそうである。

また、a~c以外にも、「第2画、横格部分の右上がりの程度」や「書字技量」がほぼ一致している。この文字は同筆の可能性がやや高いと結論しても納得してもらえるだろう。

つぎの「宅」字は困った

さて次の「宅」字の筆跡は難題だ。特徴として指摘できるのはa~eの5箇所がある。aは、「ウ冠」の第1画の形である。資料Aは「逆くの字」に折れるが、資料Bには折れがない。これがAB逆なら、さっきの「若い時の剛、年老いての枯淡」の論理に合致するが、そうではないから説明に困る。

このような場合、鑑定人によっては無視してしまう人がいるが、それは無責任というものである。自分の主張と異なる部分については、一応どのように解釈できるのかを説明する「説明責任」があると思う。

私としては、この変化は「年老いて、頑固になったり少しわがままになったりする人」がいるが、それに類する変化と考える。

bは、「ウ冠の第2画が左傾して書かれること」である。書道手本のように右傾するのが本来であるが、左傾する人も半数近くいるものである。これは資料A・B一致している。

cは、「ウ冠の横幅が狭いこと」である。これは書道手本と比べるとわかりやすく、これも資料A・Bで一致していて問題はない。

この違いをどう説明すれはよいのか

次のdとeが困った。dは、「第4横画の長さ」である。資料Aは2資料で多少異なるが、書道手本と比べると一応2つとも短めといえる。しかし、若い時の資料Bは2資料ともほぼ標準的な長さである。

もっと困るのが「最終のハネの有無」である。遺言書の資料Aにはハネが書かれないが、手帳の資料Bには強いハネが書かれている。私としては、もはや資料A・Bは同筆と信じているが、この強い違いをどう説明したものだろう。

結局「永」字のcで指摘したように、若いときは、勢いはあるが正しい筆跡であったものが、高齢の80歳に至っては、ややわがままな自己流の書き方に変化してきた。また、一般に高齢になると複雑な行動を省略する傾向があるが、「ハネの省略は、行動の省略である」。つまり、そのような方向への個人内変動であると思われると説明した。

同筆を強く証明できる文字が必要だ

……というように、一応論理的に無理のない解釈は立った。しかし、反対者から見れば、これもコジツケのように受け取る人もいるだろう。何とか同筆であるという強い筆跡個性を発見してダメ押しをする必要がある。

そこで「崎」の字に目をつけた。「崎」字の「山」字の部分の第3画の角度と長さはどうだ、左下に長く伸ばした極めて珍しい運筆である。これは、20人に1人も書かない程度の稀少筆跡個性といえる。これが資料Bの手帳にあったら決め手になるに違いない。

そこで、必死になり、手帳を一枚一枚調べていく。
……あった!!。ついに発見!!。しかも2冊の手帳にそれぞれ1文字、計2文字もある。

筆跡鑑定では、調査する文字はできるだけ2文字以上欲しい。1文字では、たまたまそのような形になったのだろうという反論を払拭するには弱い。2文字以上あれば、偶然ではなく安定した筆跡個性と強く主張できるのである。

この「崎」文字は、決め手になったaのみを示す。この強烈な筆跡個性を別人が書くとは考えられない。つまり資料A・Bの同筆は明らかである。結果として途中に出てきた個人内変動も了解されるだろう。

このようにして、今回は反論しようがない強い同筆要素を提示できたからよかったが、このような決め手が常にあるわけではない。筆跡鑑定人は、依頼者の気づかない個人内変動で色々と苦労しているのである。

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