多くの筆跡鑑定書の問題点

筆跡鑑定人ブログ-45

筆跡鑑定人 根本 寛
 このコーナーに書くのは、事実に基づく、筆跡鑑定人の「独り言」のようなものです。お気軽にお付き合いいただければ幸いです。ただし、プライバシー保護のため固有名詞は原則的に仮名にし、内容によってはシチエーションも、特定できないよう最小限の調整をしている場合もあることをご了解ください。

 

多くの鑑定書は現代のティラノサウルスか

私は現在多く出回っている筆跡鑑定書について、「これでいいのか」と強く問題意識を持っている。多く出回っているというのは、元警察官、つまり科捜研や科警研OBの鑑定人の作成する鑑定書である。

このテーマに関しては、このブログの28「何とかならないのか警察OBの鑑定書」にも少し書いた。警察出身の鑑定人の鑑定書というのは基本的にスタイルが一緒だからすぐにわかる。

何が問題なのかといえば、主に次の2点である。なお、最大の問題は鑑定に向かうスタンスに倫理性がないことであるが、これは前にも書いたことなので今回は省く。私が問題にするのは、彼らが裁判所の鑑定人リストに載っていて、裁判長が指揮する鑑定にも顔を出し社会的な影響が大きいからだ。

①一般人には極めて分かりにくくなっていて、非常に不親切である。中には、普通の人が1日がかりで読んでも理解できないものもある。

②形式的で掘り下げがなく、技量的に低すぎる。結果として結論の誤りと曖昧な結論が多い。

まず、どのように分かりにくいのかというと、「鑑定書の編集方式」が既に問題である。彼らの鑑定書では、始めに鑑定文字の筆跡特徴が文章で延々と説明される。「第14画は左上から右下に向かって十分な長さで運筆され……」という調子である。そして、その対象の文字(警察OBは「検体」と呼ぶ)の拡大図は、はるか離れた鑑定書の巻末に閉じられている。

私の考えでは、右図のように、最初に調査文字ありきで、まずはその文字を拡大し並べて見せて、それを説明すれば誰にも簡単に理解できる。

私の鑑定書はそうしている。実際に鑑定する場合、ほとんどの鑑定人は目の前に拡大した鑑定文字を並べて、それを見ながら説明文を書いている筈だ。

読みやすくしようとのサービス心がない

その通りに展開すれば、読み手は同じ紙面で図解と説明文を一緒に見ることができるのだから、こんなに理解しやすいことはない。大抵の図鑑なども概ねその構成だ。それが読者へのサービスだからだ。しかし、大抵の鑑定書は説明と肝心の図解がはるかに離れて編集され、極めて分かりにくい。

何故か。それは読者の読みやすさよりも作者の容易性を優先しているからだ。私も、反論書などでそのスタイルを使ったことがある。これは非常に簡単だ、言いたいことをズラズラ書いていって、最後に資料をつけるだけだからこんなに簡単なことはない。

また、「様」の字で14画とは「最終画」のことだが、一般には14画と書くより最終画と書いたほうがはるかに分かりやすいだろう。確かに14画と書いた方が誤りにくいかも知れないが、これも専門家同士の約束ごとで、まことに教条主義といわざるを得ない。

このような結果、読み手は、14画とはどれのことかと画数を数えて、巻末の図に当たり、「ああここのことか……なるほど長いな」と納得するというようなことを繰り返さなくてはならない。こんな作業を1文字あたり5~6回も繰り返し、4字、5字と進むうちには、頭は疲れ、混乱し、しまいには何を調べているのか分からなくなってしまうということが少なくない。

つまり、警察に限らないが、今までの司法関係者というのは「読み手を意識した資料づくり」などの観点は全くなかった。専門家同士のやり取りでは、専門用語をわからない方が問題になる。しかし、これからは、「一般人に理解させられない」者を専門家とは言わなくなるのではないか。また、「鑑定書は難しくて分からないから、裁判官もさっと見るだけだ」という鑑定人がいるが、あながちでたらめとも言い切れないようだ。

時代はわかりやすい裁判を求めている

今まさに、コペルニクス的転換期にいることに筆跡鑑定人も気がつかなくてはならない。裁判員制度に見るまでもなく、司法も「国民にわかりやすい裁判」を目指してようやく動き出した。裁判は国民に対する国のサービス業務だから、その顧客の国民を無視しては本末転倒だということにようやく気がついたのだ。

裁判員制度については、平成20年5月21日の読売新聞朝刊で最高裁事務総長、日弁連会長、検事総長による対談が特集され、但木敬一検事総長はつぎのように語っていた。

「検察にとっても根本的な変化がおきる。いままで、裁判官にだけ理解してもらえばいいという捜査や公判が行われていたことは否定できない。今後は国民にわかりやすい立証を心がける。核心をついた証人尋問、明確で簡潔な調書や鑑定書。手続きが適性だったか、自白が任意に行なわれたかも分かりやすく証明しなければならない」

ここに述べられていることは、民事事件とて何ら変わるものではない。いやむしろ民事事件こそ、より一層分かりやすい鑑定書や立証が必要である。民事は、前科何犯というような人を裁くわけではない。ほとんどは、ごく普通の市民同士の係争だからである。

民事裁判で判決になった場合、理想を言えば、勝った方にはいうまでもなく、負けた方にもそれなりに納得してもらえることが大切だ。それが判決の効力にも影響するだろうし、裁判官の国民への誠実な努力というものではないだろうか。

同じ意味で、筆跡鑑定書といえども、理想的には、対決している相手すら納得させるだけの水準のものが望まれる。家族や一族の争いが少なくないのだから、出来れば、裁判をしてしまったが、裁判を通じて争いを雲散霧消できるような鑑定書でありたい。少なくとも私はその意識で鑑定書作成に取り組んでいる。

こんな鑑定書で専門家といえるのか

具体例を示そう。図は私の鑑定書からの抜粋である。資料Aの筆跡と資料Bの筆跡が同一人のものか否かがテーマである。この文字を含め合計8文字の鑑定をして、私は「同一人の筆跡である」と結論した。相手の鑑定人も同じ文字を鑑定したが「別人の可能性が高い」という結論であった。結論は真っ向から割れている。何故そうなるのか、それも含めて説明する。

資料にはaからgの記号を付けている。私が指摘した筆跡特徴である。資料Aには「○」が付いているが、これは一致しているという意味で、不一致の場合は「×」をつける。そして図のすぐ後ろに説明を付けている。私の鑑定書は「調査文字」と説明が1頁になっているので、非常に見やすく分かりやすい筈だ。

「★」記号は、相手の鑑定人が指摘した箇所という意味である。ご覧のように私がaからgの7箇所を指摘したのに対して、相手の鑑定人は4箇所しか指摘していない。しかも、後に説明するが表面的な部分だけだ。

鑑定の説明はこうなっている

指摘した特徴を簡単に説明すると次のようになる。

a …… 「木偏の第1画が左に突出すること」これは相手の鑑定人も同じく指摘している。言うまでもなく資料A・Bで一致している。
b …… 「木偏の左右の払いが低い位置から始筆すること」これは書道手本と比べるとわかりやすい。この一致も相手の鑑定人も指摘している。
c …… 「木偏の右払いが独特の曲線で書かれること」これは、私のみが指摘している。これは筆者識別からは重要なポイントだ。この動物の尻尾のような個性的な形の一致は無視できない。
しかし、警察OBの鑑定書は、まずは文章で説明しなければならないが、この微妙な形を文章だけで説明されても分かりにくいだろう。鑑定文字と説明がセットになっていれば、読み手にとって何も難しいことはない。
d …… 「木偏の縦画の終筆部を逆の方向にハネること」これも重要なポイントだ。これは忙しく文字を書く人に稀に見られる書き方で、「やや稀少」な筆跡個性であり強い同筆要素といえる。しかし、相手のの鑑定人は無視している。本当に見落としなのか、意識的なものか、いつも悩むところである。
e …… 「旁の第1、2画で作られる角度が狭いこと」である。こういう時に書道手本が役に立つ。書道手本なしに漠然と見ていてはこの特徴には気がつかないだろう。
また、このような箇所は、拡大し指摘されて初めて気付く程度の微細な部分である。経験則から考えて「気付かないところに作為を施すことは出来ない」。つまりこの箇所は、別人による偽造の可能性を低くし、同一人の筆跡個性の可能性を高めている」といえる。しかし、当然だが相手の鑑定人はこれも気付いていない。検査が表面的なのである。
f …… 「つくりの縦画の終筆部をハネないこと」である。これは誰が見ても分かる。さすがに相手鑑定人も指摘している。
g …… 「最終画を長く払うこと」これも相手鑑定人も指摘している。ただし、片方は直線的で片方は途中に折れがあるので、異なった筆跡個性としている。私は、書いた時期がA・Bで10年以上のズレがあり、その他の個人内変動の大きさから見て、形の違いは個人内変動の可能性が高いとした。

 

「個人内変動」とは、同じ人が同じ文字を書いた時の筆跡の変化のことである。……ということで、私は、この文字だけに限って総括すれば「同筆の可能性が高い」という結論になり、合計8文字の結論は「同一人の筆跡である」になった。相手鑑定人の結論は「別人の筆跡の可能性が高い」というものであった。

しかし、a~gの説明でお分かりのように、警察OBの相手鑑定人は、a・b・f・gの、誰が見ても分かるような表面的な箇所しか指摘していない。筆者識別の急所になるc・d・eを見逃していた。更にgのように、筆跡個性的に異筆と考えにくい箇所を、いくつか「異筆要素」としてカウントしていた。

裁判の信頼性を落していることが究極の問題である

このように「鑑定技量が低い」ということが、多く見かける警察OBの鑑定の第二の問題である。しかし、私は、鑑定技量が低いことに苦言を呈しているのではない。このような鑑定人が、裁判所の指定する鑑定人として裁判長指揮のもとに鑑定書を書いている弊害に警鐘を鳴らしているのである。

私の下には、このような、おかしな鑑定がらみの裁判で納得できない結果になり、裁判官を恨んだりして不信を持っている人が少なからずお見えになる。国を信じられない悲しみを持つ人の存在と、司法の信頼性が失われていることが残念なのである。

日本の筆跡鑑定は、多くがこのレベルで行われ、その結果、「筆跡鑑定は、恣意が入るので判断の限界がある」などと称されている。そして、かなりの裁判官にも、だから恣意の入らないコンピュータ鑑定が望ましいなどという人がいる。

しかし、今回、鑑定の一部を具体的に見ていただいたことでお分かりのように、鑑定方法を少し工夫すれば、筆跡鑑定は決して理解できないものではない。そのためには、裁判官が真実を知ろうと少し努力されれば、日本の筆跡鑑定のレベルなど簡単に上がるのである。

肝心なのは、第一に、当事者全員によく分かってもらおうとする鑑定人の意識と工夫の問題である。第二には、裁判官に、このような現状を理解していただき、現状打開の取り組みをしていただくことである。何といっても司法への信頼回復は、裁判官の見識にかかっているからである。

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