筆跡鑑定の工夫

筆跡鑑定人ブログ-48

筆跡鑑定人 根本 寛
 このコーナーに書くのは、事実に基づく、筆跡鑑定人の「独り言」のようなものです。お気軽にお付き合いいただければ幸いです。ただし、プライバシー保護のため固有名詞は原則的に仮名にし、内容によってはシチエーションも、特定できないよう最小限の調整をしている場合もあることをご了解ください。

 

分厚い鑑定書は要点を見落とされるおそれがある

筆跡鑑定というと、AとB二つの文字を比べて、同一人の筆跡か否かを解明するものと思われている。確かにそれはその通りである。ただ、鑑定書を作成している側の実態としては、真実を解明するよりも、関係者に理解してもらうための表現上のエネルギーのほうが大きい。

筆跡鑑定は裁判に使われることが多く、当事者よりも裁判官が鑑定書をどのように受け止めるかということが肝心である。つまり、依頼人がどれほど喜ぶ鑑定書であっても、肝心の裁判官に、「依頼人寄りの鑑定書だ」などと思われては元も子も無いのである。

そのあたりが分からない(?)鑑定人も少なくない。ある鑑定人は、自分の経歴や鑑定の一般的な注意事項を長々と書いて分厚い鑑定書に仕立て上げる。依頼者には「さすが高い料金を取るだけのことはある」と喜ばれるかも知れない。

しかし、このような鑑定書は問題がある。その、ボリュームたっぷりの鑑定書は、忙しい裁判官には嫌がられるだけではなく、夾雑物の多さから、肝心の鑑定上の重要ポイントが見落とされる恐れがある。

裁判官は、極めて忙しい人種である。同時に数多くの案件を抱え、そこから次々と陳述書や証拠書類が上がってくる。一つひとつの案件に割ける時間にも限りがあり、斜め読みも少なくないだろう。このような裁判官の実情を踏まえると、鑑定書は簡潔で、かつ、要点を的確にとらえた効果的なものでなくてはならない。

効果的な鑑定書とはどのようなものか。……裁判官といえども筆跡鑑定に精通している人ばかりではないから、簡潔を旨としながらも、よく絞り込んだ鑑定ポイントの説明は外せない。また、案件によっては特殊事情の説明も必要になる。

左手で書いた筆跡と右手で書いた筆跡の鑑定

私は以前、脳梗塞のため、左手で書いた遺言書と健常時に右手で書いた文字を比較して鑑定しなければならないという状況にぶつかった。これは日本の裁判所では初めてのケースではないかと思う。

人が文字を書くというのは、手が勝手に動いて書くのではない。最初に脳の「言語野」に蓄えられた文字のデータ(イメージ)が想起され、それを「運動中枢」を介して腕を道具として書くのである。

この場合、言語野に損傷がなく、運動中枢との連携にも問題がなければ,右手だろうと、左手だろうと,あるいは口に筆を咥えて書こうと同じ筆跡特徴が表れる筈である。違いは腕の訓練度だけである。このことは、120年も前にドイツの医学者が証明しているし現実にも事例がある。

群馬県に詩画作家として有名な星野富弘さんという方がいる。星野さんは20代に学校の体育の先生をしていた。そのころ、鉄棒から真っ逆さまに落ちて頚椎を損傷し、首から下は完全な麻痺状態になってしまった。

星野さんは、その絶望を乗り越えて感動的な詩画を書くようになった。ベッドに横になり口に筆を咥えて書くのである。この星野さんの書いた文字を大学時代の友達が見て「大学生の頃と同じ筆跡だ」というそうである。

この左手と右手の鑑定の場合は、裁判官の理解を得るためには、鑑定の前段で「言語野と運動中枢の関係」や「ドイツの医学者の事例」などは説明しておくことが必要になる。

私の鑑定は、かなり精密だから説明も複雑にならざるを得ないことがある。じっくり読んでいただけば誰にでも判るように書いている。実際、依頼人は自分のことだから真剣に読むが、その依頼人が理解できなかったということはない。

しかし、前述のように裁判官は忙しい人種である。疑問なく一見してわかる鑑定署にすることが大切である。

この効果にはわれながら笑ってしまった

ここでは、ちょっとした工夫でうまく理解度を高めた例を示そう。つぎの契約書と念書の文字が同一人もものか否かを争っていた。依頼人は同一人であることを証明したいというものだった。私が見たところ同一人の筆跡であることは間違いないが、ご覧のように字の傾きが違う。

人によっては、ときにこのように、角度を変えて書く人がいるものである。気分が変わりやすい人に多い。しかし、裁判官は秀才揃いだから、世の中にこんな気分屋がいるなどとは理解出来ない人もいるだろう。人は誰でも自分を基準に判断するからだ。

そこで、念書を、契約書と同じように回転させて見た。それがつぎの図である。……如何だろう。笑ってしまうほど酷似している。「1」字は、下から入筆するところ、終筆部を引っ掛ける形、全体として軽く湾曲するところ等そっくりである。

「0」字は、大きさこそ違うが、ほぼ真円の形や起筆が頂点にくるところなどそっくりだ。これなら誰が見ても同一人の筆跡であることは一目瞭然だろう。秀才の裁判長もこのような人間がいることを納得してくれるはずだ。

「偏」と「旁」を組み合わせて文字を合成してみた

つぎのケースも、同一人であることは判明していたが、いかんせん字体が違いすぎる。警察系の鑑定人は、このように字体が違う文字は鑑定できないとする。私から見ると、元々公務員のためか困難な仕事にはあまり無理はしないようだ。

しかし、民間人の私としては、鑑定人としての使命感からも、何とか解決して依頼人の期待に応えたいと思う。そこで色々と工夫をするということになる。厄介ともいえるが、その工夫が自分に力をつけることであり有難いと思って取り組んでいる。

このケースは「江」の字である。ご覧のように、鑑定資料の筆跡と本人とわかっている対照資料の筆跡では書体が大きく異なる。検証できるのは、第1画の形状と「偏と旁」の空間の広さ程度しかない。

aで指摘した第1画の角度と僅かに湾曲した形は、対照資料も見られ一応の類似性といえる。このような書き出しは、書体が違っても比較的安定的に表れることが多い。つぎは「偏と旁の間の空間の大きさ」である。

この書き手は、この空間がやや広めである。しかし、対照資料は「サンズイ」の書体が、楷書で、しかも大きく書かれているため一見するとその空間が広めには見えない。……さてどうする。なにしろ、この文字ではa・b2箇所しか指摘できるところがない。そのうち1箇所が使えないとすればまことに残念だ。

そこで、両方の資料から偏と旁を取り出して合成して文字を作ってみた。それが右の合成資料である。そして「このように組み合わせてみると、偏と旁の間の空間の広さが理解できると思う」と注釈を書いた。

苦し紛れのウルトラシーだが、手をこまねいているよりはいいだろう。こんなわけで、鑑定といっても単純に2文字を比べているだけではなく、問題解決のための創意工夫も必要になる。警察出身の多い鑑定人は、幸か不幸かこのような努力をする鑑定人はほとんどいない。私は、自分の置かれたこのような立場に感謝し献身している。

★このブログはお役に立ちましたでしょうか。ご感想などをお聞かせいただけば幸いです。
メール:kindai@kcon-nemoto.com

話数 筆跡鑑定人ブログバックナンバー
第八十八話 遺言書の偽造あれこれ
第八十七話 筆跡鑑定における経験則とS/N比
第八十六話 筆跡鑑定の誤りは何故発生するのか
第八十五話 一澤帆布の遺言書事件の教訓
第八十四話 スペシャルポイント鑑定
第八十三話 「季節外れのカニ鑑定書」とは
第八十二話 小澤一郎夫人の離婚状
第八十一話 オウム・高橋克也と早川紀代秀の筆跡
第八十話 異なる文字による筆跡鑑定
第七十九話 舞の海は筆跡も「八艘飛び」?
第七十八話 小沢一郎も関係?藤井裕久の筆跡鑑定
第七十七話 英文署名の筆跡鑑定
第七十六話 NHKから依頼された「孫文」の筆跡鑑定
第七十六話 NHKから依頼された「孫文」の筆跡鑑定
第七十五話 「ひらがな」による筆跡鑑定
第七十四話 国民のお金を盗み取るかんぽ保険
第七十三話 浅田真央さんと安藤美姫さんの筆跡
第七十二話 狭山事件・石川一雄さんの手錠を外したい
第七十一話 警察系筆跡鑑定の問題点
第七十話 岸恵子さんと島倉千代子さんの「超越文字」
第六十九話 左手と右手で書いた文字の鑑定
第六十八話 「作為文字」の正しい鑑定とは
第六十七話 吉行淳之介と野坂昭如の筆跡
第六十六話 「不倫はやめなさい」という怪文書の鑑定
第六十五話 誤字は筆跡鑑定の宝物
第六十四話 豊臣秀吉の大きな錯覚
第六十三話 運を開く遠藤周作の筆跡
第六十二話 企業における筆跡鑑定研修の必要性
第六十一話 クレジット会社の恐るべき不誠実
第六十話 新田次郎の筆跡を見る
第五十九話 左手で書いた遺言書を右手の筆跡で証明
第五十八話 開高健の筆跡を読む
第五十七話 暴力犯の筆跡
第五十六話 松下幸之助の筆跡
第五十五話 「いい仕事をしてますね」の中島誠之助さんの筆跡
第五十四話 本田宗一郎の筆跡
第五十三話 横峯さくらさんを「勝手に筆跡診断!」
第五十二話 一澤帆布事件の真相
第五十一話 科捜研鑑定と私の鑑定の違い
第五十話 人気の「池上彰」さんを裸にする
第四十九話 ビデオ流出海保安官ってどんな人間?
第四十八話 筆跡鑑定の工夫
第四十七話 異なる文字では鑑定はできないのか
第四十六話 君が輝いていたころ
第四十五話 多くの筆跡鑑定書の問題点
第四十四話 高橋尚子さんの筆跡
第四十三話 筆跡鑑定のカギ・筆跡個性
第四十二話 私が誤った鑑定書を憎む理由
第四十一話 筆順は鑑定人の強い味方
第四十話 筆跡鑑定人の悩み
第三十九話 木嶋佳苗ってどんな人間?
第三十八話 失敗しない鑑定依頼の方法
第三十七話 ある鑑定依頼人の逆転勝訴
第三十六話 タレントさんの意外な筆跡
第三十五話 中田カウス事件の筆跡鑑定
第三十四話 筆跡鑑定と筆跡心理学の関係
第三十三話 スコトマと筆跡
第三十二話 筆跡鑑定書の信頼性
第三十一話 白洲次郎の筆跡
第三十話 一澤帆布事件では何故警察の筆跡鑑定が敗れたのか
第二十九話 日本の誇る鉄人クライマー「小西浩文」の挑戦
第二十八話 何とかならないのか、警察OBの鑑定書
第二十七話 「ためしてガッテン」に出演
第二十六話 円満紛争解決学
第二十五話 石川遼君の筆跡
第二十四話 岡田監督の筆跡
第二十三話 三浦和義の筆跡
第二十二話 芸能人の筆跡あれこれ
第二十一話 コンピュータの鑑定は人間より信頼できるか
第二十話 堀江貴文・佐野厄除け大師の怪
第十九話 トイレ万札事件の主人公は?
第十八話 ぶるーくろすで虐待はあったのか
第十七話 誤字はダイヤモンド
第十六話 イジメと切れやすい子供の筆跡
第十五話 塩尻市男女変死事件
第十四話 文部科学省への自殺予告文
第十三話 冤罪を晴らす
第十二話 ドメスティック・バイオレンス
第十一話 畠山鈴香と酒鬼薔薇聖斗の筆跡
第十話 プロの目・アマの目
第九話 狙われた宮司の財産
第八話 遺言書偽造事件
第七話 鑑定における統計的なアプローチについて
第六話 1ヵ月に2回離婚した夫婦
第五話 他人が手を添えた署名は有効か
第四話 営業マンの犯罪
第三話 間違いのない鑑定依頼の方法
第二話 変体少女文字の怪文書
第一話 ちょっとした工夫で納得性を高める