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筆跡鑑定人ブログ-5
- 筆跡鑑定人 根本 寛
- このコーナーに書くのは、事実に基づく、筆跡鑑定人の「独り言」のようなものです。お気軽にお付き合いいただければ幸いです。ただし、プライバシー保護のため固有名詞は原則的に仮名にし、内容によってはシチエーションも、特定できないよう最小限の調整をしている場合もあることをご了解ください。
交通事故の被害を疑われる
ある日、若者から電話があった。鑑定の相談に乗って欲しいが、話が複雑なのでお邪魔して話したいという。了解したら、つぎの日尋ねてきた。
田中和彦君、在日韓国人で26歳である。4年前、自転車で家に帰る途中車にはねられた。ボンネットから落下して、右腕から手首にかけて複雑骨折をした。運転者は30代の女性だった。事故は一方的に相手側の過失で、警察で作った「被害者供述調書」にもそのことは明記されているとのこと。加害者は過失を認め、医療面も十分に責任を持つといっていた。
しかし、最近、事故の後遺症が甚だしく、保険で対応するのは困難らしいとわかったら前言を翻して逃げ腰になった。供述調書に田中君が署名していることを挙げ、怪我の程度はそれほど酷くはなかった筈だと言っているという。
■友人に介添えしてもらっての署名
田中君が供述書に署名をしたときは、右手はギブスで固められ、動かすことは不可能だった。しかし、署名しないと事故処理が終了しないといわれ、友人にギブスの上から手を包み込んでもらい、彼に動かしてもらってかろうじて署名をした。
供述書を取った警官は別の署に移籍していて、署名時の状況は記憶にないと言っているという。別人に手添えしてもらって署名したことを証明しないと、加害者にも保険会社にも請求ができない。警察としては、友人に手を添えてもらったことを証明する鑑定書を持ってくれば、供述書作成時の状況を認めようということである。私(根本)のホームページを警察に見せて、この鑑定人が鑑定書を作成したなら良いかと聞いたら、よいと言われたというのである。
■ 手を添えた署名の問題は遺言書にもある
なかなか難しいテーマである。このようなケースは自筆遺言書でも見られる。自筆遺言書の場合は、最高裁の判決から見ると、第一に遺言者が自書能力を有していることが前提条件である。そして、介添えの手が、①正しい位置に筆を置くため、②改行するためであること、さらに「筆跡に他人の意志が介入した形跡がない場合」に限り有効とされる。今回の鑑定は、他人に介入してもらったことを証明するもので、ちょうど逆である。
筆跡の鑑定結果は田中君の主張どおりあった。解決済みの事件ではあるが、プライバシーの観点からフルネームの記述は控え、名前の最後の「彦」の文字だけに限定して説明しよう。
■ 書字技量が上の供述書への署名
資料B、Cが田中君の筆跡。Aが問題の供述書への署名である。資料Bはパスポート、資料Cは銀行カードへの署名である。田中君は高校生になってから来日したとのことで、資料B、Cを見て分かるように、幼稚な字画構成で書字技量は低い。書道なども習ったことが無いとのことだ。
一方、供述書への署名は、ギクシャクしてはいるが、やや右上がりに書かれた二画目の運筆や、何より四画から五画かけての続け書きなど、資料B、Cには見られない運筆であり、書道の素養を窺わせるものであった。別人の介入は明らかである。鑑定書には要旨つぎのように書いた。
「鑑定資料Aは、ギクシャクとし手がスムーズに動かない状況を表している。しかし、右上がりの第二画や四画から五画かけての続け書きなどに、田中和彦とは異なる運筆がなされている。いずれも田中和彦よりも書道素養的に上位の筆跡である。日頃、資料B、Cの水準の文字を書いている者が、突然、このような素養上位の運筆を行うことはありえない。本人が申告しているように、ペンを持った手を書道素養的に上位の友人に上から包むように支えられ、手を動かされて書いたものと認められる」
10日ほどして、順調に交渉が進んでいるとの電話があった。鑑定人として、疲れが飛び役に立ててよかったと感じる瞬間である。
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