開高健の筆跡を読む

筆跡鑑定人ブログ-58

筆跡鑑定人 根本 寛
 このコーナーに書くのは、事実に基づく、筆跡鑑定人の「独り言」のようなものです。お気軽にお付き合いいただければ幸いです。ただし、プライバシー保護のため固有名詞は原則的に仮名にし、内容によってはシチエーションも、特定できないよう最小限の調整をしている場合もあることをご了解ください。

 

ユーモアと繊細さを併せ持った人柄

開高健は好きな作家だった。私はあまり小説は読まない。ルポルタージュやエッセイの方が好きだ。好きだと言っても、私はそれほどの読書家ではない。30歳代は会社経営、40歳以降は経営コンサルタント、そして50歳からは筆跡心理学研究と余裕のない人生を生きてきたためである。

だから開高健が好きといっても幾らも読んではいない。エッセイなど精々10冊程度だ。読書家の人からみたら笑われてしまうだろう。それでも文面から伝わってくる開高健のおおらかさと繊細な人柄に魅了された。また、私はアウトドアー派で、彼の自然観などに共鳴することが多かったためでもある。

改めて開高健の足跡を振り返ってみると、大きく三つの時代に分けられるようだ。最初は、サントリーの宣伝部に所属していたころ。結婚し、28歳で『裸の王様』で芥川賞を取った時代。

つぎは、30歳代の半ばに朝日新聞社の特派員としてベトナムの戦場に行き、九死に一生を得て帰国し、『輝ける闇』など、多くの戦場ものやドキュメンタリーを発表した時代。

到達した「輪廻転生」の思想

そして、最後は「釣師」として、世界中を駆け巡り、有名な『オーパオーパ』や『私の釣魚大全』など数多くの楽しいエッセイを発表した時代。私が主に読んだのは、この時代のものである。だから、彼のシリアスな部分はほとんど理解していない。

この最後の時代について、彼が「戦場の話は、どのように書いても似たような情景になってしまい、もういいと思った」というように書いている。ある時期、高揚感はあったかも知れないが彼を疲れさせたのかもしれない。多くの死に直面してきて、彼は「所詮生と死は一体であり、この世は輪廻転生の繰り返しにしか過ぎない」と、たしか釣書のなかで語っている。

また、一面、開高健はシャンソンを言語で歌うことを好んだということで、デリケートな感性の人だったろう。一方、ドキュメンタリー作品で見せた徹底した「現場主義」、そして、釣の世界で見せてくれたユーモア感覚など非常に多面的な奥の深い人物であった。このあたりのことは、浅学な私としてはこの辺で止めたほうがよいだろう。

本来は安定した人生を好んだのではないだろうか

さて、肝心の開高健の筆跡である。特徴はいくつもあるが、特に強い三点に絞りたい。軽い方からいうと、「マス目文字傾向」と「転折部のあり様」、そして「下狭型文字」である。

まず、「マス目文字傾向」である。これは、白紙に書いていてもあたかも原稿用紙のマス目に書くように、文字の大きさを揃えて書くということ。開高健の署名を見ると三文字の大きさがよく揃っている。実際、彼は、原稿用紙に書くにもまさにマス目いっぱいにきちんと書いていたようだ。

このマス目文字の書き方には……名前の書き方に限って言えば……五木寛之、遠藤周作、谷崎潤一郎などがいる。この筆跡個性の方について、私ども筆跡心理学の立場からは「常に一定・安定した行動を好む」と解釈している。開高健は、サントリー時代、ベトナム特派員時代、晩年の釣師時代とならべると、むしろ波乱万丈な人生に見えるが、人生は自分の思い通りに行かないという格好の例かもしれない。

ついでながら、文字に大小を付けて書く人には「大江健三郎」、「松本清張」、「菊地寛」などがいる。これらの人は、逆に「変化を好む」と解釈している。

転折部に見られる複雑な人間性

つぎに、「転折部のありよう」である。転折部とは、「開」や「高」の字の右上の角の事。つまり「口」の字で言えば第2画の折れる部分である。「丸く転ずる」書き方と「角に折れる」書き方があり、そこから転折部と呼ばれる。

この部分を「角」に書く人は、学校で教わった書き方をしっかり守っているわけで、「生真面目・几帳面な人」ということ。「丸」に書く人は、社会に合わせて変化させてきたわけで「柔軟性・融通性のある人」といえる。

それでは開高健はどうかと見ると、何と両方の書き方をしている。図の左側の二点は明らかに丸型、右側の二点は角型である。このような人をどう理解すればよいのか。

これは、そのまま両方の性格を持っていると解釈すれば良いのである。ここに取り出した四点の署名は、いずれも人に献本するため署名をしたものである。取り上げた以外の沢山の署名は丸型がやや多い。

しかし、神奈川県茅ヶ崎にある「開高健記念館」の表札は自筆であるが角型である。このあたりをヒントに読み解けば、開高健は本質的には柔軟な丸型の傾向、そして社会的な性格としては角型の几帳面な性格といえるようだ。

つまり、本来の性格は丸型の柔軟型であるが、社会生活上の必要から角型の几帳面な性格も身につけてきたということである。後者の部分は、「社会的性格」あるいは「役割性格」(ペルソナ)と考えられる。ペルソナとは「社会に向けた仮面」という言い方もあるが、最初は仮面でも長年続けることで性格の一面になるのである。

人間、大人になれば、誰でも多かれ少なかれこの意味での二面性はあるわけだが、作家として奥深い世界を追求してきた開高健は、より複雑な深みを持つ人格に熟成していると理解できる。つまり、開高健は、ユーモアにあふれた明るい性格と、生真面目で妥協を許さない厳しい一面を持っていたものと思われる。

また、エッセイを読むと、開高健は自ら強い躁鬱症だと述べている。躁の時はあの明るい笑顔を振りまき、鬱になると一人部屋にこもってウイスキーをがぶ飲みしていたらしい。転折部の角丸混合もこの躁鬱と無関係ではないのかも知れない。

運命を悪化させるという「下狭型」の影響?

開高健の筆跡特徴で一番気になるのは「下狭型」の筆跡である。下狭型とは、「開」の文字が下が狭くなり安定感の悪い字形になっていること。特に右端の文字は甚だしい。この字形は、文人などには比較的見られることがあるが、私ども筆跡心理学の立場からは歓迎できない。

なぜならば、この字形は不安定さを求める深層心理の反映であり、人に対して一種の不安感を与えるからである。そういうことから、われわれは、この形は「運気を下げる字形」と理解している。

「文人木」という盆栽の形がある。多くは赤松などで、中国の南画に見られるような、細い幹が斜めにヒョロヒョロと伸び枝ぶりも簡素だ。安定感のない形が風流と感じられ文人の好みに合うことから名付けられたようだ。

一方、太い幹で蟠幹と呼ばれるどっしりとした松もある。ちょうど蝸牛のような末広がりの安定感のある形である。こちらは、どちらかというと、事業の成功者などに好まれる。現実的な力や財物を重視する人たちである。

この二者の違いは、クラブに行って「先生」と呼ばれたい人たちと「社長」と呼ばれたい人たちの違いといえばわかりやすいかも知れない。クラブのママはその客の好みを素早く読み取り対応するわけだ。

深層心理にあるものはいつかは実現する

このような好み、つまり深層心理にある価値観はその人の人生の大枠に関係する。先生と呼ばれたい人たちは、たとえば「文人松」のような、一種の不安定な風流を愛でる心がある。それは、一つの美点であるが、その深層心理の反映で、求めている不安定さが現実になることも少なくないのである。極端な例が太宰治の破滅型の人生である。

一方、現実社会での地位や金銭的な成功を求める人たちは、安定感のあるどっしりとした盆栽を好む。安定し、バランスの良い豊かな枝ぶりに己の人生を重ね合わせるのだろう。その安定を求める深層心理が、ついには現実のものになるのである。

その文人木の不安定な形が開高健の「開」の文字に表れている。特に、右端の文字は極端な下狭である。なぜこのような字形に書くのかといえば、その不安定さが深層心理にフィットするからである。そして、その深層心理の欲求は現実のものとなるのである。

もう一つの問題としては、このような字形の手紙などを貰った人は、何となく不安感を覚え、頼もうとしていた仕事も断るなどして、その書き手の運勢を下降させるという面もある。

開高健が、執筆の依頼が無くなった等ということはないだろうし、金銭的に困るような状況にはならなかっただろうが、彼の家族を含めた運勢を考えると、あれほど活躍した人物にしては晩年は実り豊かな人生とは言いにくいように思える。

開高健の晩年をどう見るか

まず、亡くなった年齢が58歳である。早世とまでは言わないが、早い死である。もっとも、人生は暦年齢ではなく、やるべきことをやり尽くしたかどうかと見れば何ともいえないが……。

そして、一人娘の開高道子さんは、父親の開高健が亡くなって五年後に鉄道事故で亡くなっている。享年41歳である。奥さんは78歳で亡くなっているから年齢的には普通程度である。

しかし、自宅で倒れていて、亡くなって五日後に警察官に発見されたということで、交友関係が多いと思われる著名な文壇人の夫人の最後としては無残な状況である。このように考えると、開高健は盛名を馳せた作家としては、恵まれた晩年とは言えないような気がする。

このことは、私どもが言っている「下狭型の筆跡は運勢を悪化させる」ということと無関係とはいえないように感じられるのである。

しかし、考えてみれば人生の善し悪しは生きた時間の長さでは測れない。どれだけ、やりたいことをやったか否かだろう。多くの人はそれなりの安定と地位を得たかも知れないが、真にやりたい人生を送った人は多いとはいえない。

立花隆は、『青春漂流』のプロローグで「人生における最大の悔恨は、自分が生きたいように自分の人生を生きなかったときに生ずる」と言っている。
そのように考えれば、晩年の運勢がどうであれ、開高健ほど自分の生きたいように生きた人は少ないのではないか。その意味では、まさに大成功の人生と言えるのかも知れない。

しかしながら、一般論としては、幸福で安定した人生を送りたければ、図に書いた「弘法型」といわれる末広がりの形に書くほうが望ましい。風流さのない野暮ったい形であるが、その安定感が深層心理に浸透しその形通りの安定した人生を招いてくれると考えるからである。

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