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筆跡鑑定人ブログ-59
- 筆跡鑑定人 根本 寛
- このコーナーに書くのは、事実に基づく、筆跡鑑定人の「独り言」のようなものです。お気軽にお付き合いいただければ幸いです。ただし、プライバシー保護のため固有名詞は原則的に仮名にし、内容によってはシチエーションも、特定できないよう最小限の調整をしている場合もあることをご了解ください。
(このテーマはやや専門的なので、筆跡鑑定に興味の無い方は飛ばしてください)
脳梗塞のため右手が使えず左手で遺言書を書いた
ある弁護士さんから嬉しい知らせがあった。それは、10か月前に行った鑑定に関して、限りなく勝訴に近い和解が成立して依頼人は大変喜んでいるとの知らせである。このような知らせが鑑定人にとっては一番嬉しい瞬間である。
その遺言書の鑑定は、非常に珍しくまた難しいものだった。遺言書を書いたのは……60代の男性だったが……脳梗塞により右半身が不随となり、やむなく左手で遺言書を書いた。しかし、亡くなるまでの日数が少なかったため、対照する左手で書いた文字がほとんど無かった。
やむなく、健常時の右手で書いた筆跡と対照しなければならなかったのである。係争の相手は兄弟だが、日頃の右手の筆跡と比べて大きく乱れた筆跡を本人のものとは信じられず、偽造だと申し立てたのであった。もちろん遺言書の内容が不満だったことはいうまでもない。
何故、左手と右手の筆跡の比較ができるのか
そこで、弁護士さんから依頼を受けて私が鑑定書を作成した。裁判官には、左手での筆跡と右手の筆跡の同質性を理解して頂く必要がある。そこで最初に、脳科学の見地から簡単に説明した。つまりつぎのようなことである。
即ち、人が文字を書くときにき、最初に、脳の「言語野」に蓄えられた「文字のデータ(字形や筆順)」を想起する。つぎに、その想起した文字データを、手を道具として書くということになる。
したがって右利きの人が右手で書く場合は、熟練した手で書くので字形は整う。一方、左手で書くときは、手が熟練していないので大きく乱れることになる。
しかし、脳に蓄えられた文字データは同一なのだから、右手で書いても左手で書いても、類似した一定の特徴が表れることになる。つまり、脳に蓄えられた文字データは一定のパターン、規則性があるからである。一方、左手で書いた文字の乱れは単なる非熟練の結果だから、そこには何らの規則性もないのである。
したがって、鑑定に当たっては、不一致の箇所は無視してかまわない。類似する箇所を見つけて、それは、別人でも偶然類似するようなものか、本人でなければ書き得ないような一定の規則性が見出されるものかということを精査すればよいのである。
怪文書などの作為のある筆跡も同じ検証方法になる
鑑定書の最初に、まず以上のいうような説明を行った。つぎに、このような事実は、ドイツの医学者によって、100年以上前に発見されていることを書名を挙げて説明した。
最後に、群馬県の詩画作家・星野富弘さんの実例を説明した。星野富弘さんは、体育の先生をしていたとき鉄棒から落下し頭部を除く全身麻痺になってしまった。その後、口に筆を咥えて絵や文字を書くようになったのだがそれを学生時代の友人が見て、手で書いていた筆跡とそっくりだと言っている。このことは、以前、NHKの『ためしてがってん』に協力した折に、アドバイスしたのでよく知っている。
ところで、このような鑑定は、「韜晦筆跡(とうかいひっせき)」の鑑定によく似た面がある。韜晦筆跡とは、怪文書や脅迫状などの場合に自分の筆跡を隠すために作為を施した筆跡である。
したがって、韜晦筆跡の鑑定は、表面的には似ていない筆跡の中から類似する筆跡個性を探し出して、それが別人の偶然の類似か、同一人の筆跡個性であるのかを調べることになる。これは、左手で書いた筆跡と右手で書いた筆跡の異同を調べることとまったく同じ事である。
さらに、偽造を見破るには、その類似箇所が誰にも分かるような部分なのか、それとも一般には気付かないような箇所であるのかの精査がポイントになることも同じである。
なぜなら、誰もが気づくような部分が類似しているのなら偽造の可能性が考えられるし、誰も気付かないような微妙な部分が類似しているのなら本人の可能性が高くなるからである。つまり気づかない部分に作為を施すということは考えられないからである。
発見した特徴は偽造が可能なものか否かを検証する
それでは実際の鑑定を具体的に説明しよう。ただし、このケースは当事者から実際の文字の使用は遠慮してくれと言われているので、私が、筆跡個性的に類似する文字を書いて説明しよう。
まず、つぎの「塚」の字を見て頂きたい。左が左手で書いた鑑定文字、右が健常時に書いた本人の文字である。いかがだろうか、左手の文字は当然大きく乱れている。しかし「土」字をかなり小さく書くという特徴は共通しているようだ。
さらに、「紀」の文字では、旁の「己」字を小さく書くという特徴も共通している。この二文字の類似から見れば同一人の筆跡のようである。つまり、偏と旁のある字形の場合「単純な字形を小さく書く」という共通した癖のようで、そのように見ると同一人の筆跡の可能性があると考えられる。
このように偏と旁のある文字で「単純な字形を小さく書く」という筆跡個性は、脳の言語野にそのようなパターンで蓄えられていて、それが、右手で書いても左手で書いても同じように顕在化すると考えられるからである。
しかし、一方では、このような目立つ特徴は、大抵の人は気がつくから、健常時の筆跡をお手本にして偽造する可能性もある。偽造しようとする人は、相当に注意深くやるからである。
「あった!」……この特徴は偽造は困難だろう
そこで、そのあたりを検証する文字がもう少し無いだろうかと探した。「美」の文字が見つかった。これは一見しては分かりにくいが、最初の二画で作られる「V」形の角度が狭いという特徴がある。
私は、説得力を高めるために書道手本を参考にしているが、書道手本では、この角度は90度前後である。しかし鑑定文字と比較文字は、両方とも40度未満である。
図2に提示した文字は、普通サイズの3倍くらいにしてある。このぐらい拡大し説明されればわかるが、この微妙な特徴は普通サイズの文字で気付く人は少ないと思われる。気付かない部分に作為を施すことは考えられない。だから、この特徴の一致は強い同筆要素といえる。
念のために、この筆跡個性が他にもないかと探してみたら、「光」の字があった。そしてこの文字も同じ特徴を示している。
(これは間違いない!)
この後、さらに3文字ほど、偽造の難しいことでは似たレベルの文字で確認して同一人の筆跡であると結論した。このような場合「別人には書くことが困難な類似筆跡個性」を積み上げていって確度を高めるのである。
例えば、ある筆跡特徴を書く人が、5人に1人だとしたら確率は0.2である。つまり10中2人が該当することになる。しかし、同じ確率のものを4つ積み重ねれば、該当する確率は1000人中1.6人と言うことになる。つまり、0.2×0.2×0.2×0.2=0.0016……となるからである。
このような検証の仕方は、前述したように自分の筆跡を隠そうとする韜晦文字でも同じような調べ方になる。筆跡鑑定というと、単に二つの文字の異同を調べるだけと思われるが、このようなロジックが必要になるケースもあるのである。
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