新田次郎の筆跡を見る

筆跡鑑定人ブログ-60

筆跡鑑定人 根本 寛
 このコーナーに書くのは、事実に基づく、筆跡鑑定人の「独り言」のようなものです。お気軽にお付き合いいただければ幸いです。ただし、プライバシー保護のため固有名詞は原則的に仮名にし、内容によってはシチエーションも、特定できないよう最小限の調整をしている場合もあることをご了解ください。

 

『日本の品格』を書いた藤原正彦氏のご尊父

今回は、作家・新田次郎の筆跡を研究したい。新田次郎の名前はもちん知っていたが、何かの折に藤原政彦氏のご尊父と知って非常に関心を抱いたのである。

興味を抱いた理由の一つは、私は極めて少ない読書のなかで、藤原正彦の著作は『日本の品格』をはじめ比較的よく読んでいて、武士道精神や日本人の情緒性など共鳴するとことが多いからである。また、氏が父親からの教えとして、「弱い者いじめはするな」など、素朴で分かりやすい教育を受けたことなども親近感を感じている。

人間、歳を取ると自分と同世代者の生き様や考え方に関心が強くなるようだ。その点、藤原正彦は昭和17年生まれ、そしてご尊父は明治45年生まれということで、父親も含めて私とは二歳違いでしかない。

さらに、新田次郎そして藤原正彦も、一時期、長野県上諏訪の山里で育ったということも他人事とは思えない。私も故あって、上諏訪の隣村あたりの山を歩き回った経験がある。あの清冽な信州の空気を吸って自然を観察していたのかと思うと、それだけで懐かしい友人のような気持ちになるのである。

端然とした品格を感じさせる筆跡

……というようなわけで、今回は新田次郎の筆跡を取り上げたい。つぎが氏の筆跡である。いかがだろうか。一見して非常に端然とした品格を感じさせる筆跡である。それは、全体として楷書傾向で無駄な飾りやけれんみの無いことから来るようだ。

作家の署名には、一種の気取りや虚飾が透けて見えることが少なくないが、新田次郎の署名はいかにも明治人らしい生真面目さと率直さが感じじられる。

筆跡心理学の立場からは、三箇所の特徴を取り上げたい。第一は楷書傾向の書体ながら、「田」接筆部(第1画と2の字の第1画と2画の接する左上の角)が開いていることである。この部分は軽く閉じるのが本来の形である

それが開くと言うことは、筆跡心理学の立場からは、細かな規則や因習などに縛られない視野の広さの表れだと考えている。規則に縛られる人は、 基本通り接筆部をきちんと閉じて書くことが多い。

新田次郎は、中央気象台の技官として活躍した。その立場からは、データを重視しルールに厳しい方だと思われる。しかし、一方で、そのような規則に縛られない広い心の持ち主に違いないと思われる。

これは、氏が少年時代、信州の自然の中で育ったことと無縁ではないだろう。人間社会の約束事は大事にしながらも、それを超える自然の営みに教えられたといって良いのではないだろうか。接筆部のありようは、こんな人間性を感じさせる。

考え方は視野が広いが、行動としては几帳面

つぎは、同じ「田」字の転折部の形状である。転折部とは右上の第2画の折れる部分である。ここは、角に折れる人、丸く転ずる人がおおよそ半々である。ここは、筆跡心理学からは角に折れる人は几帳面な行動傾向、丸く転ずる人は融通型の行動傾向と見ている。

この部分は、第2画の途中経過である。そこからこの部分は、考え方というよりは行動傾向に関連すると考えている。だから、氏は、その行動傾向としてルールを大切にする几帳面型だと思われる。

以上の2点、つまり「考え方は視野が広いが、行動としては几帳面」という人柄は、大変好ましい人格だ。一例を挙げれば、藤原正彦が教わったという「弱い者を助けるときは力を使ってもよいが、相手が泣いたり謝ったりしたらすぐに止めよ」ということと結びついているような気がする。

「力を使ってもよい」というのは、「暴力は絶対禁止」というような狭い考えではない視野の広さを表している。一方、「泣いたり謝ったりしたらすぐに止めよ」ということは、一つの社会ルールとして守るべきことを示している。

良い結果を出そうとの気持ちが強い人

最後の特徴は、「郎」の最終縦画を長く伸ばしていることだ。これは、筆跡心理学の立場からは「何事であれ良い結果を出そう」と言う気持ちが強いと解釈している。

このように、縦画を長く伸ばす書き方は、作家では「草野心平」、政治家では「大平正芳」がいる。二人とも「平」字の縦画を長く伸ばす。芸能人では「石原裕次郎」がいる。裕次郎は極端で、「郎」のおおざとを「良」字の五倍も長く伸ばす。

ともあれ、このように、縦画をほぼ無意識のうちに長く伸ばしてしまうのは「もっと良くしよう」、「もっと良くしよう」という気持ちがスルスルと筆を伸ばしてしまうものと理解される。行動としては、さっさと切り上げてつぎに移るということが出来ない熱意や執着心の強い人といえる。

いずれにしても、新田次郎の署名の筆跡は、最近の人には少ない明治人の気概や真面目さをよく表しているように思われる。

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