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筆跡鑑定人ブログ-68
- 筆跡鑑定人 根本 寛
- このコーナーに書くのは、事実に基づく、筆跡鑑定人の「独り言」のようなものです。お気軽にお付き合いいただければ幸いです。ただし、プライバシー保護のため固有名詞は原則的に仮名にし、内容によってはシチエーションも、特定できないよう最小限の調整をしている場合もあることをご了解ください。
作為文字の鑑定には、それなりの方法がある。
F社は、某社員によって自社を誹謗する文書を得意先に送付された。犯人と推定される社員Xの筆跡を鑑定に出した。結果は、「別人の筆跡と推定される」というものだった。鑑定人は元科捜研のOBである。便宜上、この鑑定を「OB鑑定」と呼ぶことにする。
A社は納得できず、今度は私に鑑定を依頼してきた。私は、一目で同一人の筆跡のように感じたが、冤罪をつくってはいけない。一致する文字を6字ほど慎重に調査した。
「一目で同一人の筆跡のように感じた」と言ったのは、筆跡は全体として人間の顔のような面があり、独自のパターンがあり、直感的にわかることがある。しかし、鑑定人としては、直感で分かりましたというわけにはいかない。具体的に説明しなければならない。
この時の誹謗文書の筆跡は、「韜晦(とうかい)文字」と呼ばれる。韜晦文字とは自分の筆跡だと悟られないように作為をこらした筆跡である。最も多いパターンは、単純に乱暴に書くことである。
乱暴に書けば、確かに一見すると別人の筆跡のように見える。しかし、精密に調査すると、一定の特徴が浮かび上がってくる。なぜなら文字は手だけで書いているのではなく、脳の言語野に蓄えられた文字のデータによって書かれているからである。
今回の誹謗文字は、もう一段悪知恵を働かせどうやら左手で書いている様子である。左手で書けば、右手でただ乱暴に書くよりはもう一段複雑になる。しかし、先の「脳のデータ」によって書いていることには変わりがないので、難しくはなるが、精査すれば一定の特徴が探し出せることは変わりがない。
作為のある文字から「筆跡個性」を発見しようとしても無駄だ
その鑑定文字の一つが、つぎの「気」の文字である。OB鑑定では、「A」の第1画と二画の書き方が違うので異筆要素としている。それも、鑑定資料から特徴を取り出して、対照資料と照合している。このやり方は、韜晦文字の鑑定としては基本的に誤りである。
韜晦文字は、そもそも自分の筆跡を隠そうとして、乱暴に書いている。その字形から何らかの特徴があると取り出してみても、その多くは、本来の筆跡個性とは何らの脈絡もなく、鑑定人はただ振り回されてしまうだけだ。
そうではなく、書き手の分かっている対照資料から特徴的な筆跡を探し出し、それが韜晦筆跡に露呈してはいないかと調べなければならない。そうすることで、初めて書き手の「筆跡個性が特定」でき、検証することができる。そもそも、筆跡鑑定は、まず筆跡個性の的確な特定が出来なければ始まらない。
しかし、このOB鑑定のやり方は、科捜研の現場の実態でもある。科捜研は、単純に二つの資料を比較して、一致・相違の数を数えて、多い方に軍配を挙げる。韜晦文字は、自分の筆跡を隠そうとしているのだから、相違点が多くなるのは当然で、このやり方はナンセンスだ。
科捜研は、このような初歩的なことすら分かっていない。そもそも、どのような箇所に作為が多くなるかということすら理解していないようだ。これは、犯人の立場に立って、実際に自分で作為文字を書いてみるとすぐ分かるのだが……。
どのような部分に作為を働かすのか
作為は、まず文字の書き始めと終わりごろに施されることが多い。途中の画数の多い部分には作為の神経が及ばないことが多い。同時によく目立つ箇所に施すことが多い。
この角度から考察すると、この「気」文字では、冒頭の第1、2画と最後のハネあたりが注目点と言える。OB鑑定は、その、まさに第1、2画に違いがあるから別人だと指摘している。
これは、大いに問題である。もう一つの着眼すべきこと、すなわち左手で書いたものと想定すると、この第1、2画の形は非常に良く合致している。つまり、左手で書くということは次のように視点が左に来る。
ペンを持つ支点が左にあると、「縦線」と「時計でいうと0時から6時にかけての曲線」は書きやすいが、「横線」と「時計の6時から12時にかけての曲線」は書きにくくなるのである。
横線は、左から右に運筆する。この場合、右手で書くと「引く」動きになりスムーズに運筆できるが、左手だと筆先を「押す」動きになるので、どうしてもスムーズさが失われてぎこちなくなりやすいのである。
以上のような要素を含めて、OB鑑定の指摘する「A」は、左手で書けば対照資料のような一筆書きは極めて書きにくいはずであり、鑑定資料のように第1画と二画を分けて書いているのは理に適っている。
左手だと、①を付した「縦線」は書きやすく、②を付した横線は書きにくいはずだ。事実、縦線はスムーズに長く伸び、横線はギクシャクして左手で書いたという推測を裏付けている。
しかし、このような複雑な考察は、めったに鑑定書に書くことはない。鑑定途中の、自分の判断のために考察しているだけである。今までの経験から、あまり複雑な鑑定は、法廷で理解していただくのは無理なようだと考えるからだ。
気のつかない筆跡特徴には作為は施せない
この「気」の文字について、私は「あ、い、う」の3点を指摘した。「あ」で指摘したのは、「文字全体が縦に長い傾向」があることだ。これは鑑定資料2には、やや該当しないが、鑑定資料1にはほぼ一致している。
鑑定資料は作為を施した韜晦文字だから、必ずしも、指摘した特徴が2文字にしっかりと表れるとは限らない。1文字にでも表れていれば、それは同筆の要素と考えられる。
つぎに「い」で指摘したのは、「第4画のハネ」である。日頃の普通の筆跡…対照資料の2文字にしっかりハネが書かれている。これは安定した筆跡個性と言える。それが、鑑定資料1に表れている。鑑定資料2は違っているが、これは前項で説明した理由で無視できる。
最後に「う」で指摘したのは、「最終画が長い画線に書かれること」である。これは書道手本と比べるとわかりやすい。これは対照資料に明らかに表れている。鑑定資料は、2字ともに左手での動きのためか、特に長くなっている。
この「う」で指摘したことは少し注釈がいる。つまり、この特徴には作為がなく、本来の筆跡個性が表れているだろうということだ。何故なら、このような微細な部分は、作為があってもその意識が及ばないと考えられる。
人は、自分の癖だと普段から考えている部分や、目立つ部分には作為を施こすことは出来る。しかし、気がつかない部分に作為を施すことは出来ない。「う」で指摘した部分は、まさにそういう部分だと思われる。
この「作為のない部分が共通している」ということは、同一人の筆跡の可能性を高くしている。何故なら、別人が偶然「あ・い・う」の3点もが一致する可能性は極めて低いと考えられるからだ。
以上の3点から、私はこの「気」文字の総括としては「同筆の可能性がある」という判断になった。読者の皆さんはどのように感じられるだろう。強引と感じるか慎重と感じるかお聞きしたいものである。
なお、この後、5文字を調査して結論は「同一人の筆跡である」との結論になったことを報告しておきます。
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