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筆跡鑑定人ブログ-8
- 筆跡鑑定人 根本 寛
- このコーナーに書くのは、事実に基づく、筆跡鑑定人の「独り言」のようなものです。お気軽にお付き合いいただければ幸いです。ただし、プライバシー保護のため固有名詞は原則的に仮名にし、内容によってはシチエーションも、特定できないよう最小限の調整をしている場合もあることをご了解ください。
遺言書は病床の筆跡とは異なることが多い。
筆跡鑑定で最も多いのが自筆遺言書の鑑定である。鑑定全体の約半分を占める。「本人ではないようだ」という相談が多いが、案に相違して本人であることが多い。依頼人は、本人の「日記」などと比較することが多いが、日記の乱れた筆跡に比べ遺言書はしっかりした筆跡のことが多く、依頼人はそれで本人ではないと思ってしまうようである。
死期近くに書かれた遺言書は、入院中に書かれたものが多い。死が近づいたことを悟った遺言者は、必死の力を振り絞り、人生最後の遺言書をしたためるのだろう。そのためか、日記などの乱れた筆跡に比べると、力がこもり、はるかにしっかりした字になることが多い。
愛する家族に災いを残したくないという、強い責任感のしからしめることだろう。私は、そのような遺言書に接するたびに、遺言者の状況と気持ちを想像して襟を正したくなる。
■不自然な最後の遺言書
今回のケースは、珍しく偽筆を証明した事件である。東北のある男性から相談があった。私のことは、新聞記者にホームページを調べてもらい、「この鑑定人なら間違いないといわれました」とのことである。
この依頼人は、四人兄弟の長男で亡くなったのは父親。パーキンソン病で入院していた。長男として家を継ぎ、両親を養っていて、過去に三回書かれている遺言書では、この長男が遺産の全てを相続することになっていて兄弟も了解していた。
ところが、亡くなる一週間ほど前に書かれた最後の遺言書では、全ての財産は三男に相続させるとなっている。重篤で文字を書ける状態ではなく、内容的にも不自然なので鑑定してもらいたいとのことである。
■「遺」の文字の不可解な運筆
住所氏名などの文字は示すわけにはいかないので、図Aに「遺言書」の「遺」の文字だけを示す。ご覧のように、激しいふるえがあり、手がまともに動かないような文字である。パーキンソン病は、脳神経系の病気では最も多い病気で、筋肉が堅くなり、ふるえて運動失調になる。その点では病状に符合した筆跡である。
図Bに発症しないときの本人の筆跡を示す。ご覧のように、最後の遺言書に書かれた筆跡とは違いすぎて、比較はほとんど困難である。科学警察研究所のOBの鑑定人なら、鑑定不能という可能性が高い。
しかし私は、つぎの二点に疑問を持った。第一には確かに震えている部分はあるが、震えていない字画もかなりあることである。かなり重篤と聞いている患者が、このようにほとんど震えのない線を書けるものだろうかということである。
さらに図Aの「貝」の字の部分では、第一画から二画かけて、「Vの字」型に折り返し、さらに「逆Vの形」に、途切れないでかなり長く運筆している。これだけの運筆をするには、ある程度の息の長さや集中力の長さが必要で、重篤な病人がはたしてこのような運筆ができるだろうか……。考えにくいことである。
■決め手は「V字型の運筆」
次に図Cが、偽筆の疑いのある三男の筆跡である。紙面の都合で二文字のみ示すが、この他に「自、見、思」など、「貝」の字と第一画、二画が共通する6文字があり、第一画、二画から二画にかけてはすべて「Vの字」型に運筆している。これだけ同じ運筆が示されているということは、これは、三男の恒常性のある筆跡個性と見てよいだろう。
一方、図Bの父親の筆跡には、このような筆跡個性は全然見当たらない。いくら、重篤な病状であっても、普段動かさない腕の動きをすることは考えられない。この「遺」の文字は、父親の筆跡の可能性は低い。
結論として、三男の偽造であった。この文字だけで結論づけたわけではなく、他にひらがなを含め八文字を調査した結果である。しかし何といっても、この鑑定で決め手になったのは、この「V字型の運筆」であった。
図A・遺言書
図B・本人筆跡
図C・三男筆跡
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