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筆跡鑑定人ブログ-87
- 筆跡鑑定人 根本 寛
- このコーナーに書くのは、事実に基づく、筆跡鑑定人の「独り言」のようなものです。お気軽にお付き合いいただければ幸いです。ただし、プライバシー保護のため固有名詞は原則的に仮名にし、内容によってはシチエーションも、特定できないよう最小限の調整をしている場合もあることをご了解ください。
50年ほど前に、最高裁は筆跡鑑定は有効であると認めた。しかし、判決文の中には、「…筆跡鑑定は勘や経験に頼らざるを得ない面があり、その証明力には限界があるにしても…」と、半分はやや批判的な言い方をしているが、これは正しいのだろうか。
はたして筆跡鑑定では、「勘や経験」に頼ることは、それほど好ましくないことなのだろうか。
裁判では、明確な裏付けやデータがないことには、たとえ事実でも認めにくいことは判る。しかし、真に生きた裁判というものはそういうものではないだろう。真に意義ある裁判とは、データ偏重や教条主義を超えた、人間の本当の知恵が求められているのではないだろうか。
私は、筆跡鑑定という、データの限界がある分野では、「勘と経験」は、極めて強力な武器であり、
これをないがしろにしては、高い水準の筆跡鑑定は成り立たないと考えている
筆跡鑑定とは、普通の人が書いた様々な文字の中から、「書き手に固有の特徴」つまり「筆跡個性」を取り出す作業である。それは、雑音の中から人の言葉を聞き取るような作業に似ている。
筆跡鑑定とはS/N比高めること
情報工学に「S/N比」という用語がある。サインとノイズの比率という意味で、「信号雑音比」と訳されている。私は、筆跡鑑定とは、読み手が理解できるように、「S/N比」を高めることだなと考えることがある。
つまり、筆跡鑑定とは、文字に付帯する様々な雑音(乱れや個人内変動)の中から、書き手に固有の筆跡個性を取り出して示すことといえる。
実際の鑑定書を読めば分かるが、多くの人は、例えば「この「口」の字は、標準よりも厚みがある」という指摘によって、始めて「なるほどそう言われればそうだなあ」と気づくものである。これが比喩的にいえばS/N比を高めることという意味である。
しかし一方、単なる文字の乱れや個人内変動を筆跡個性と誤って捉えて、異筆だとか同筆だとか言っている鑑定書が少なくない。これは、ノイズを有意義なサインと間違えたレベルの低い鑑定だが、残念ながら現実には多く見られる。
S/N比をカバーする経験則
科学的には言えば、S/N比が有効になるには、少なくともSが「1」以上でなければ取り出せない。しかし、人間の能力とは凄いもので、欲しいサインが1以下でも取り出せることがある。
たとえばうるさい地下鉄の車内で会話である。電車の騒音の方がはるかに大きくて、本来ならば相手の声は聞き取れない筈である。マイクで録音したら、当然、音声はキャッチできない。しかし、現実には会話が成立している。どうして、このようなことが可能なのだろうか。
本来、拾えない筈の音声をキャッチできるというのは、実は「経験」があってのことである。会話が成立するのは、話の脈絡から、聞き手は「このようなことを言いそうだ」と予測しているからである。また、唇の形からも音声を判断しているからでもある
「浜」字にみるS/N比の具体例
このようなことは、経験がないとできない。人は、機械では捉えることが出来ない音声も、経験によって補うことが出来るという例である。つまり、それが「経験則」というものの価値である。これは、人間だからできる優れた能力だと言える。
これは、筆跡鑑定でも同じである。例えば、筆跡鑑定では「稀少筆跡個性」というものがある。20人以上に1人しか書かないような珍しい書き方や字の形を言い、書き手を特定する上で非常に強い鍵になる。
ある珍しい特徴があったとして、それが「稀少筆跡個性」なのか、それとも「やや珍しい」程度なのかの判断が必要になる。このような場合の判断のためには経験が必要になるのである。
もし、その特徴をデータとして用意しようとすれば、非常に膨大な作業になり、民事事件ではその費用は当事者負担になるから、負担しきれないということになりかねない。
しかし、経験豊富な鑑定人ならば、「この書き方は30に1人程度のものだろう」と推測でき、大きくは狂っていないものである。私は、カギになる文字については、何度か自費で独自のアンケート調査を行い、自分の推測がほぼ間違ってはいないことを確認している。
このように、適切な経験則の力は、大金をかけてデータを整備しなくとも、有効な一面があることを教えてくれる。杓子定規にデータが無ければダメというものではない。
さて、抽象的な話はこの位にして、鑑定の実例を使って「サイン」(鑑定上有効な筆跡個性)と、ノイズ(邪魔な個人内変動)の違いを具体的に説明したいと思う。
図を見て頂きたい。「浜」という文字を取りあげる。この筆跡からは、書き手に固有の筆跡個性として、赤色に着色した「a」「b」「c」の3点がある。今回のケースは、3点全てが「角度」である。文字を書くとき、角度というものは、比較的、個人内変動の影響を受けにくいのである。
aは、「サンズイ」の第3画の角度である。書道手本に比べるとフラットになっていることがわかる。bは第4画の角度である。これは逆に書道手本より急角度になっている。cは、「ハ」字の「開脚の角度」である。これは、書道手本が約90度なのに対して約70度と狭くなっている。
この3点の特徴が、2文字に安定していることからも、たまたまの変化(個人内変動)ではなく、安定した筆跡個性であることが分かる。
個人内変動(ノイズ)とは、筆跡が、①気分、②体調、③書くときの諸条件によって変化することである。個人内変動の「あ」と「い」は、書くときの条件の影響を受けやすい部分である。
「あ」も「い」も、変動の原因は「字画線の長さ」である。字画線の長さというものは、気分か良いと長く伸ばしたり、書くスペースが狭いと短くなったりと変化しやすいのである。事実、「あ」も「い」もA・B2つの資料間で相違している。
このように、ただ数をこなしさえすれば、サインとノイズの違いが分かってくるというわけではないが、実地で多くの経験を積み、それを理論的に考察することで「経験則」という智慧が身についてくる。
裁判でも、このような人間の能力を正しく受け止める柔軟性が必要ではないかと思う。筆跡鑑定という極めて人間的な分野は、全て機械的に対応できるものではなく、柔軟なセンスが求められる分野だと考えるからだ。
今回は、筆跡鑑定を理解する上で、S/N比の概念がヒントを与えてくれること、そして「経験則」というものの大切さについて理解を深める必要があるのではないかと検討してみた。
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