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筆跡鑑定人ブログ-71
- 筆跡鑑定人 根本 寛
- このコーナーに書くのは、事実に基づく、筆跡鑑定人の「独り言」のようなものです。お気軽にお付き合いいただければ幸いです。ただし、プライバシー保護のため固有名詞は原則的に仮名にし、内容によってはシチエーションも、特定できないよう最小限の調整をしている場合もあることをご了解ください。
警察の「類似分析」には限界がある。
最近、また困った鑑定書にぶつかり[意見書]を書いたところである。困った鑑定書というのは警察系鑑定書の主流の「類似分析」である。これは、比較する二つの文字から「類似箇所」と「非類似箇所」の数を数えて、多いほうに軍配を上げるという方式である。
具体的には同じ文字の同じ箇所で類似・非類似の強い特徴を指摘するのである。たとえば「木」という文字なら「横画は類似」、「縦画は非類似」というように分別していくわけだ。
「困った鑑定書」というのは、鑑定に多い「作為筆跡」にはほとんど役に立たないということである。作為筆跡には2種類ある。本人に成りすます「偽造」と、自分の筆跡を隠蔽しようとする「韜晦(とうかい)」である。「類似分析」は、この両方にほとんど役に立たないのである。
他人に成りすます方法では、本人の筆跡をお手本に模倣をする。当然似たところが多くなる。鑑定が必要になるようにケースでは、偽造者は神経を研ぎ澄まして模倣をし、相当に偽造水準の高いものも少なくない。それを表面的に捉えて「類似」「非類似」と数えていくだけだから、ほとんどの文字は同筆(同一人の筆跡)という結論になってしまうのである。
有名な一澤帆布の遺言書鑑定でも「類似分析」は否定された。
今回ぶつかったのはそのケースである。このような判断ミスは、有名な一澤帆布事件でも同じであった。最初の裁判では、警察系3人の類似分析で、疑問の遺言書は同一人のものという結論でありそれは最高裁でも確定した。この誤りは類似分析の限界から見て当然と言える。
しかし、その後に提起された別人による同じ裁判では、警察系3人のその類似分析は否定された。裁判官は、「文書が偽造されたものである場合、似せて作成するため、共通点や類似点が多く存在したからといって直ちに真筆だと認めるわけにはいかない」と退け、最高裁でも確定した。
今回の私のケースの「困った鑑定書」は、まったく同様のものだ。しかも、今回のケースでは、13画ある漢字を取り上げ、何とその一文字で34箇所も特徴を指摘している。それを類似・非類似と分別しているのである。13画というと、「嫁」「勤」「勢」というような程度の画数である。
例えば「嫁」という文字で、特徴を34箇所も取り上げて類似・非類似とチェックしたら、違う字体でない限り、誰が書いた文字でも類似点が多くなってしまうことは間違いない。数多く分析したからといって科学的とは言えない。むしろ、重視すべきポイントが数多い指摘箇所に埋没してしまい、焦点がボケてしまうのである。
また、類似分析は、自分の筆跡を隠蔽しようとする韜晦文字の鑑定にも無力である。このことは、本ブログの51と68にも書いているので、ご興味があればご参照願いたい。韜晦文字は、自分の筆跡を意図的に変えて書いているのだから、本人の普段の筆跡と比較すれば、当然、相違点が多く異筆(別人の筆跡)となってしまうのである。
「類似分析」は作為のある文字には無力である。
具体例を一つ示そう。つぎは、ある嫌がらせの文書に書かれていた文字(B)と、その書き手と思われる人間の筆跡(A)の実際の鑑定である。このケースでは、鑑定資料Bは、嫌がらせの手紙に書かれていたもので作為のある韜晦文字である。これは証明されている。しかし、現職の科捜研の鑑定人は「2本の横画が異なる」ので異筆とした(A記号)。私は、精密鑑定により同筆とした。もちろんこの一字で断定したわけではないが。
私の鑑定は後ほど述べるとして、警察系の「類似分析」では、このケースでは全く無力ということがお分かりになるだろう。確かに、2本の横画の長さも角度もまるっきり異なっている。類似分析でこれを同一人の筆跡と見抜くことは不可能だ。
つまり、類似分析は、作為のある筆跡の鑑定にはほとんど無力なのである。これが有効なのは「自然筆跡」…つまり何の作為もない文字にしか対応できないのである。警察系の鑑定の本には、「鑑定は同じ字体、同じ書体、そして同じような性格の筆跡で行う」とある。これは、堅実かも知れないが、非常に初歩的な鑑定と言わなければならない。
「類似分析」のもう一つの落とし穴
類似分析には、もう一つ大きな問題がある。類似分析は「自然筆跡」には有効だと述べたが、そこにも落とし穴がある。それは、遺言書などのケースで、高齢になり衰えて筆跡が変化した場合である。例えば、本来、右が上がる横画を書いていた人が、衰え・乱れて時に右下がりになったりする。この場合も、類似分析では、表面的に捉えて別人の筆跡としてしまうということになる。このような誤りにも何度かぶつかり、意見書や反論書を書いてきた。
このように、類似分析は、表面的な「字形」の違いにとらわれ間違いの起こりやすい鑑定方法である。しかも、このような低レベルの鑑定を、裁判官が、警察系の鑑定人は元公務員(現公務員)ということで過大に信用してしまうという弊害もある。
それでは、私の精密鑑定はどこが違うのか、その一つは「筆跡」の「性格的分析」を援用していることである。これは、「筆跡心理学」と呼ぶ分野であり、筆跡心理学とは、書かれた文字から書き手の性格や深層心理を追及する学問である。
例えば、「大」と書いた時に、横画の上に突出する縦画の長さがある。このとき、ある人は長く、ある人は短く、何回書いても同様の形になる。短い人に長く書けといっても10字も書くうちには元に戻ってしまう。逆に長い人に短く書けと言っても同じことだ。
これが何を意味するのかということである。このような違いは意識して書いているわけではない。つまり、意識下の…深層心理の働きによってこのような違いが生じているのである。われわれは、自分の行動は意識で管理していると考えがちだが、それは、行動のごく一部である。行動の90%は無意識に行っているという学者もいる。つまり、深層心理は、「行動管理機能」ということもできるのである。
私は、この筆跡心理学を鑑定に援用している。しかし、筆跡心理学がまだ社会的に十分理解されてはいないので、筆者識別の判断に応用するだけで、鑑定書には一切書き込むことはしていない。裁判官に誤解され鑑定依頼者の足を引っ張るようなことになってはいけないからである。
私の精密鑑定を支える一つの技術「非標準分析」
それ以外の私の鑑定の特徴はいくつかあるが、一つ説明すれば「非標準分析」ということがある。これは、筆跡が標準から外れる部分に視点をあて、比較検討することである。具体例を一つ挙げれば、たとえば「口」という字であれば、その字が標準に比較して縦に厚い「長型」なのか、あるいは逆に、横に平たい「平形」のかという捉え方である。
「口」字の縦横のバランスにも標準はある。そこで、それを信頼できる「書道手本」に照らしてどうかと点検するのである。この方法には3つのメリットがある。一つは、大きな特徴でないものは、漠然と見ていては特徴が掴みづらい。しかし、その場合でも手本と照合することで筆跡特徴が明確になるということである。
2つ目は、作為文字の場合、気が付かない微細な部分に作為を施すことは出来ない。つまり、気が付かない部分には模倣も韜晦もできず、本来の筆跡個性が露呈してしまうということである。何故なら、模倣は「これは書き手の特徴だ」と気が付くから模倣する。しかし、気が付かない部分には対応できないのである。
韜晦も同じことで、常々「自分にはこのような癖がある」と気づいている部分には作為を施すことができる。しかし、気が付いていない微細な癖には作為を施すことは出来ない。私が、書道手本と比較することによって、初めて微細な癖を把握し比較検討することができるのである。このように、微妙な特徴を掴み鑑定に生かすには、手本の活用が極めて効果的といえる。この技法も私の「精密鑑定」を支えている一つである。
3つめは、「非標準分析」は、標準的でない部分に焦点を当てる方法だから、鑑定で重要な「稀少筆跡個性」の把握と同じ方向である。つまり、重要度の高い筆跡特徴がより明確になるというメリットもある。筆跡鑑定における特徴の指摘は、どれも同じ重みではない。めったに見ないような個性の強い字形や運筆は鑑定上重みがある。「非標準分析」は、結果としてその角度からの追及と判断を深めるのである。
それでは、先に上げた「吉」字を使って私の鑑定を説明しよう。
私は、書道手本と比較してA、B、Cの共通点を指摘した。つまり、AとBは「隙間が広いこと」である。Cは「『口』字が厚みのあること」である。如何だろう、書道手本と比べると微細な特徴が浮かび上がってくるとお感じではないだろうか。
この微細な特徴は、3点とも「拡大し指摘されないと気づきにくい特徴」である。前述したように、気づかない部分に作為を施すことは出来ない。つまり、資料A・Bの共通する特徴は、この書き手が本来持っている筆跡個性が露呈したと考えてよいのである。
つぎは、横画の角度である。自然筆跡のAは右上がりである。作為筆跡のBは右が下がっている。しかしこれは、作為筆跡でよく見られる代表的な方法である。したがって、これは「作為の可能性が高い」と判断できる。
難問は、上の「土」字と「士」字の違いである。しかし、これも作為筆跡ではよく見られることである。一般に本来の書き方は「士」字であり、「土」字は少数派といえる。この書き手は30代の女性である。おそらく、今までに、学校で、職場で何回となく話題にされ、本人も強く意識しているはずである。その人間が、自分を見破られないように書くとしたら、本来の少数派の書き方をするであろうか。逆に書くのが当然ではないだろうか。
もちろん、これは推論であり決めつけることは出来ない。鑑定書には前段の状況も記載して「その可能性が高い」と書いた。
如何であろうか。私は、元警察官の鑑定人が鑑定人リストに載り優遇されていることは我慢できる。問題は、その鑑定の多くが「類似分析」であり、難しい鑑定ではしばしば誤っていること、そして、裁判官が時にそれを鵜呑みにしている実態を問題としているのである。
一口に筆跡鑑定といっても、その精度には天と地ほどの違いもある。このようなことを、裁判官をはじめ司法関係者にはしっかり理解しておいていただきたい。そして、鑑定書をしっかりと読み取る努力をお願いしたいのである。
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